昨年の9月のことです。ある朝、パソコンを起動すると、「あなたはイェール大学で私がもっとも好きだった講義の先生でした」という題名の英語のメールが届いていました。一瞬いたずらかなと躊躇しましたが、メールを開くと、次の文章が目に入ってきました。
「これは、あなたが100万年前にイェール大学で教えた経済思想史の講義をとった学生――あなたが覚えているはずのない学生――からの全くの気まぐれなファンレターです。」
100万年前の太古ではありませんが、40年以上前の1981年、確かに私はイェールで経済思想史を教えました。
私は69年に大学を卒業すると米国に渡り、MITの大学院に入りました。幸いにもすぐに論文を書くことができ、その後イェールに赴任しました。その頃が私の学者人生の頂点だったと思います。
あっという間に博士号がとれたことで私は傲慢になっていました。イェールでの8年間、主流派の経済学に対抗する『不均衡動学』という本を書くことに集中し、1本も論文を出版しませんでした。米国の大学は「出版か、さもなくば失職か」という世界です。論文を全く書かない人間が居残れるはずがありません。日本からの誘いもあり、私は帰国することを決意しました。
ただ、日本に戻ることにしたのにはもう一つ理由がありました。それは言語です。
ある日、洒落た喫茶店で、当時はエキゾチックな飲み物だったカプチーノを気取って注文しました。だが、「イェス・サー」と言って注文を受けたウェイターが運んできたのは、紅茶でした。一瞬驚きましたが、すぐに何が起ったか分りました。カプチーノという私の発音をカップ・オブ・ティーと聞き取ってしまったのです。隣りで笑い転げている連れ合いを横目に、茶色い透明な液体を飲みながら、私は日本に帰る潮時が来たのだと悟りました。
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source : 文藝春秋 2024年3月号