荷風の末裔

磯﨑 憲一郎 作家・東京工業大学教授
エンタメ 読書

 昨年の夏に父が亡くなってから以降、年が明けて現在に至るまで、なぜだか荷風の文章ばかり読んでいる。父が永井荷風の愛読者だったというわけではない、しかし父の生まれ育った葛飾区亀有の、開渠沿いに蛇行しながら続く板塀や、踏み固められた地面から立ち上(のぼ)る湿気の、あの冷んやりとした感触を、荷風の書いた描写から思い出している、という部分はあるかもしれない、父の実家の庭の土は石炭でも含んでいるかのように真っ黒で、子供の素手では容易に掘り返せないぐらい硬かった、私が住んでいた千葉の赤土の地面とは明らかに違っていた。

『濹東綺譚』は二十数年振りに再読したのだが、「大江匡」と名乗る語り手の「わたくし」が、英語教師「種田順平」を主人公とする「失踪」と題する小説を書き進めながら、私娼街玉の井で出会った「お雪」との交情を描く、一方で当然ながら読者は作者があの(、、)永井荷風であることも了解していると考え併せると、本作はどうしてこんな複雑な二重、三重の入れ子構造を持つに至ったのか、やはり不可解に感じられる。自分自身も物書きとなった今、改めてじっくり読み返してみると、いかにも小説らしいカタルシスにだけは意地でも流されまいとする作者の捨て身の抵抗が、この歪ともいえる作品構造に結実したように思われてならない、唐突に挟まれる注釈や逸脱は、その抵抗の痕跡なのかもしれない。

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source : 文藝春秋 2024年4月号

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