古川ロッパと「映画時代」

創刊100周年特別企画

平山 周吉 雑文家
エンタメ 映画 歴史
往年の喜劇王ロッパは若かりしころ、映画雑誌の名物編集長だった!

「美味いものを毎日食えるようになりたい」

「文藝春秋社から新しく映画雑誌が創刊されることになって、菊池寛先生から招かれ、麹町の文藝春秋社へ勤めることになったのは、僕が早稲田大学一年生の時だったと思う。/雑誌の名前は「映画時代」と云った」(『ロッパ随筆 苦笑風呂』)

 エノケン(榎本健一)、ロッパと並び称された昭和の喜劇王・古川緑波(ロッパ)は、20歳代の4年間、文藝春秋の社員だった。初任給30円で始まり、辞める時には月給100円となっていたから、まあまあの仕事ぶりだったか。当時の文藝春秋社は全員縁故採用の中小企業、というより菊池寛の個人商店だった。まもなくのある日、夕食を菊池寛社長からご馳走になる。場所は西銀座の一流レストラン「エーワン」で、1人前5円以上もした。

「[菊池寛]先生のスピードには驚いた。スープなんぞは、匙を運ぶことの急しいこと、見る見るうちに空になる。ライスカレーも、ペロペロッと——

生まれて初めて食べたエーワンの、[カツレツなど]それらの料理。そして、デザートに出た、ババロアの味、ソーダ水の薄味のレモンのシロップ。

ああ何と美味というもの、ここに尽きるのではないか!

実に、舌もとろける思いで、その後数日間、何を食っても不味まずかった。(略)

正直のところ、僕は、ああいう美味うまいものを毎日、思うさま食えるような身分になりたい。それには、どうしても千円の月収が無ければ駄目だぞ、よし! と発憤したものである」(『ロッパ食談 完全版』)

 単なる一大学生が菊池寛に拾われた、というわけではなかった。明治36年(1903)生まれのロッパは、「映画時代」創刊の大正15年(1926)には数え24歳だが、すでに映画雑誌編集歴は10年になろうとしていた。早稲田中学時代に活動狂となってから、自ら謄写版で雑誌を出し、それが嵩じて、「蒲田」「映画世界」などの商業誌を編集、初期の「キネマ旬報」同人でもあった。「古川緑波」は既にして、いっぱしのベテラン映画評論家だったのだ。

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古川ロッパ

映画に注目した菊池寛

「映画時代」の編集長は近藤経一という作家だった。近藤は後期白樺派に属し、新聞雑誌に大衆小説を書きまくっていた。父親は東大医学部教授にして駿河台病院院長というから名門の子弟で、東大卒業後、妻(女優の原光代)の希望で渡米してキネマ研究に深入りした。ダグラス・フェアバンクス、エルンスト・ルビッチ、チャーリー・チャップリンとの会見を果している(藤元直樹「白樺派のアンファン・テリブル」「映画論叢」42、43号)。編集者ロッパを即戦力として見込んで呼んだのは、菊池寛ではなく近藤だった。「映画時代」は1年後にはロッパが事実上の編集長となった。近藤は映画時代プロダクションで、菊池寛原作、鈴木伝明主演、島津保次郎監督の「海の勇者」を製作する。菊池寛自身、映画という新しいメディアに注目していた。

「文芸、殊に小説戯曲が十九世紀から、二十世紀初頭にかけての寵児であった如く、映画が二十世紀中葉のあらゆる芸術中の寵児ではありはしないか。私は、そんな気がする。文藝春秋社から、「映画時代」を発刊する所以である。もし、亦非常に事情がよくなれば、将来映画製作者として立ってもいゝと思っている。芸術的仕事としても、可なり意義のある面白い仕事であると思っている」(菊池「よしなし事」「文藝春秋」大正15・6)

「海の勇者」は意欲作ではあったが、赤字となったので、菊池寛と近藤経一の映画進出は頓挫する。菊池寛が永田雅一(永田ラッパ)に乞われて大映の社長となるのは戦中の昭和18年(1943)だからだいぶ先だ。敗戦の翌年、菊池寛は文藝春秋社を解散するが、大映社長は続け、辞職するのは昭和22年(1947)に入ってからだった。菊池寛にとって、「二十世紀芸術」映画は意外と大きな比重を占めていた。

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「映画時代」創刊号

流行作家と人気女優が対談

「映画時代」創刊号(7月号)で、菊池寛は随筆「映画と文芸」を書き、合評会に出席し、栗島すみ子との対談「一問一答録」に登場した。ロッパは「古川緑波」として、3つの合評会に出席し、随筆「映画万歳」と埋草記事を執筆している。大活躍だ。「本誌編集の一員として、文藝春秋社へ入社してから、文壇の人々とも随分お話をする機会が多くなった」。

 作家では室生犀星、正宗白鳥などが執筆、川端康成、横光利一、山本有三、岸田國士、片岡鉄兵などが合評会に出席している。川端のシナリオ「狂った一頁」(衣笠貞之助監督)も掲載されている。創刊号の仕上がりに、菊池寛は満足した。次号、次々号の「編集後記」で菊池は気勢を上げる。

「▽本誌の創刊号は、各方面ともかなり好評であったのは嬉しかった。「高級な映画雑誌は売れぬ」など云うことは、一つの謬見であったことが分ったようである。▽本誌は今後とも高尚なる品位を保つと共に、興味中心でやって行きたいと思う。創刊号二万三千刷ったのであるが、売行がよいのに甘えて、二号は二万五千位刷るつもりである」
「▽本誌が、一号よりは二号、二号よりは三号と内容形式共進歩していることは、諸君の認むる通りである。今までの雑誌は、大抵は一定の映画会社若くは撮影所と関係あるものだが、本誌のみは厳正中立で各会社各撮影所に対して公平無私である。▽一号二号共売行きがよいので、第三号たる本号は三万五千部発行することにした。▽谷崎[潤一郎]氏が、本誌のために岡田嘉子氏と一問一答して呉れた好意は感謝の外はない。まさに一問一答録の白眉であろう」

「一問一答録」は菊池寛も自負する「映画時代」ならではの企画であった。流行作家と人気女優が、一対一でじっくり膝をまじえる。他誌ではなかなか実現しがたい顔合わせが毎号実現した。いまとなってもびっくりするのは、「松井千枝子と永井荷風」(昭和2・9)、「泉鏡花と梅村蓉子」(昭和3・1)ではないか。荷風も鏡花も気むずかしい文士そのもので、女優を前にヤニ下がっている姿など見せそうにないからだ。

松井 所長さん[松竹蒲田撮影所の城戸四郎]からお言伝ことづけを頼まれましたの、タイガー[荷風行きつけの銀座のカフェ]ばかし行っていらっしゃらないで、たまには活動[活動写真]も見て下さいって、先生に言って呉れって。

永井 どうも話はいけませんね――一々喋っていることを[速記に]書かれていると思うと、話が猥褻にわたれませんからね」
松井 タイガーの女給さんから今度蒲田へ女優に入った人を、先生御存じですか?

永井 あゝ知っている。あの人は、元は沼津辺りで小学校の先生をしていたんだそうですね。先生から女給、それから女優――さあ此の次は何だか――」
永井 私なんか1ばん長く一緒にいた女と云うのは、考えてみると西洋の女だった。アメリカの。

松井 英語で恋を語ったりなさったんですわね?

永井 其の頃はね。英語で喧嘩をしたこともあった、捨台詞なんかも言った。まあ、私なんか過去に生きているんですよ、その話なんかも日露戦争の頃と来ちゃ、もういけませんやね。(略)もう先に事勿れと云う気持で暮しているんです、言わゞタガがゆるんじまっているんだから」

 松井千枝子は荷風の御指名だったのだろう。松井は府立一女(都立白鴎高校)出のインテリで、この翌々年に29歳で病死する。死後には遺稿集『死の舞台』が刊行された。妹の松井潤子も蒲田の女優で、慶大野球部の水原茂(田中絹代と浮名を流した。戦後は巨人、東映の監督)の夫人となった。

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若かりし頃のロッパ(撮影年不明)

速記をとりながら酒を飲み

「一問一答録」の担当はロッパだった。ロッパは『苦笑風呂』の中で自慢している。

「「映画時代」の頃に、同誌の呼び物になっていた映画女優と文士の一問一答や、映画合評会などの速記録は、大てい専門の速記者の手を煩わさないで、僕が自ら速記したものである。/と言っても、僕は所謂速記術を心得ていたわけではない、自分で独特の記号を発明して、それによって、かなりのスピードで速記したのである。段々慣れて来ると、僕は片手で速記しながら、片手で酒を飲み、合の手には料理を抓みながら、やれるようになり、僕の速記というものは、当時文藝春秋社の名物にまでなったものだ」

 映画監督の伊丹十三は対談をすると、すべてを頭の中に記憶し、対談終了後、一字一句洩らさずに冒頭から文字起こしを出来たという。そこまでの超人ではなかったにしても、ロッパの耳は抜群の記憶力だったのだろう。司会進行をし、食事も頬張りながら、スイスイと対談記事をこしらえられたのだから。文藝春秋社で同僚だった川口松太郎(後に第1回直木賞を受賞)も「映画時代」(昭和3・4)の随筆「映画国散歩」の中で、ロッパの仕事ぶりを褒めている。仲間褒めではない。

「今月の一問一答録には、吉井勇と柳咲子の顔ぶれで、例の通り古川が懸命の努力で筆記をしている。本誌の一問一答は創刊以来、悉く古川が筆記したもので、速記者の手を借りず、自分からいやな役目を進んで引受けている。当人幾分手前味噌もあるが、仕事としては縁の下の力持ちみたいなものだから、甚だワリに合わない事を楽しみながらつづけて来た努力は、読者も大いにほめてやって貰いたい。他の雑誌の速記とくらべて貰えばすぐ判る」

 谷崎潤一郎はロッパが最も尊敬した作家だが、谷崎はロッパ追悼の文で、岡田嘉子との「一問一答録」を思い出している。

「文藝春秋社へ彼が入社してからは、仕事の関係で猶更親しくなった。岡田嘉子君がまだソ連へ行く前、若くて上手で美しい女優だった時代であるから、もう二昔どころではない、よほど古い話になるが、文藝春秋に対談か何かを載せることになって、その時分は岡本の梅林の近くの、山の上の草庵に籠居していた私の所へ、緑波君が彼女を案内して引っ張って来たことがある。(略)それから三人で大阪へ出、南の「みやけ」へ行って牛肉のヘット焼を鱈腹食べた。たしかその記事も緑波君がその号に書いていた」(「古川緑波の夢」)
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菊池寛一周忌に参列したロッパ(前から2列目左から3人目)

谷崎、岡田嘉子とすき焼き

 谷崎が覚えていたロッパの「記事」とは「一問一答録」が載った号(大正15・9)の「編集日記」である。ロッパの記述では、「キネマ旬報」の田中三郎とキャメラマンも同行している。日記なので、その日が大正15年7月21日とわかる。

「谷崎さんの山荘は、山の中腹にある、即ち私も田中三郎も大兵肥満の立派な男子なので、炎天下の山道で、滝津瀬の如く汗を流し、岡田嘉子嬢をして「あらまあ何て汗でしょ、ホゝゝゝ」と笑わしめた。(略)夕刻、「一つ皆で大阪へでも行って岡田さんの健啖振りを拝見しよう」と云うことになり、谷崎さん、岡田嬢、田中三郎と私四人連れで、大阪宗右衛門町の本みやけと云う家へ行き、本場のすき焼を御馳走になる。一風呂浴びて浴衣がけで、谷崎さんが特に御持参の葡萄酒で、「ヘット焼」と称するすき焼の理想的なるものを、全身を胃袋にして食べた。谷崎さんは実に世にも健啖だ、僕もその点充分自信はあったのだが、谷崎さんの絶大なる健啖を見ては、あゝ私は私の天才を疑いたくなった」

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source : 文藝春秋 2022年8月号

genre : エンタメ 映画 歴史