少し教養ある一般の方に「日本中世史を研究しています」と自己紹介すると、いまだに「あ〜、網野善彦さんと同じ分野ですね」と返されることが多く、驚かされる。
網野善彦さん(1928〜2004)は、1980年代からゼロ年代にかけて「日本人」や「日本」を問い直す数多くの著作を発表し、一般読書界でも話題をさらった歴史学者だ。その独創的な歴史像は「網野史学」とも呼ばれ、宮﨑駿監督の「もののけ姫」の世界観に大きな影響を与えたことでも知られている。すでにお亡くなりになって20年が経っているが、ここにきて代表作『中世荘園の様相』、『日本中世の非農業民と天皇』が“新たな古典”として岩波文庫に収められるなど、その人気は衰えを知らない。
同じ分野の研究者ということもあって、僕のところにも様々な人から「いま網野善彦は、どう評価されているのか?」、「網野善彦の本は何から読めば良いのか?」という質問がしばしば寄せられる。せっかくなので、自身の読書体験と併せて、網野善彦の「読み方」についてお話ししよう。
僕が大学で日本中世史の勉強を始めた90年代初め頃、すでに網野さんは学界のスターで、とくに78年に発表した問題作『無縁・公界・楽』(現在、平凡社ライブラリー)は史学科学生の必読の書とされていた。本書によれば、日本中世社会には世俗の支配関係から逃れようとする人々のために「無縁所」や「公界」や「楽」と呼ばれる様々なアジール(避難所)が存在しており、そこには僕らが教科書で教わるような武士や農民たちの世界とは全く異なる自由な原理が働いていた、というのだ。遍歴する職人や芸能民によって構成されるそれらの世界は、近世の幕藩体制によって無情にも圧し潰されてしまい、その後の社会に継承されることは無かったが、たしかに我が国には、かつて豊かで自由な歴史があった――。
この網野さんの主張には、すでに他の研究者から多くの批判が出ていることは、その頃の僕も知っていた。とくに「無縁所」をユートピアにしすぎている点や、その反対に幕藩体制を強大視しすぎている点などに、問題は顕著だ。ただ、文章に妙な迫力と感傷があって、当時、初学の僕ですら、この著者が多くのファンを獲得するのも道理だなと納得した覚えがある。
そもそも最初に荘園史から研究をスタートさせた網野さんは、その頃、海洋を往来する漁民や山々を漂泊する山の民など非農業民世界の研究に軸足を移して、着実な成果をあげていた。ちょうど本書は、その成果をもとにした応用問題とも言うべき著作だったのである。思いが先走りすぎて、やや強引な叙述や論理の飛躍が見られるのも、そのためだ。
しかし、その後の網野さんは「無縁」論に対する学界や世間の反響を踏み台に、より精力的に非農業民研究を推し進めていく。そして、最終的に網野さんの研究は「天皇」や「農業」に象徴される「日本国」の固定イメージを標的とし、それらを破壊して非農業世界から新しい日本像を構築するという斬新な方向に向かっていくことになる。
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