2001年9月11日の午後、私はナポリ考古学監督局の局長室にいた。翌年から開始する発掘の許可申請書を詰めるためだった。局長室の窓から入るナポリ特有のあの喧騒がなぜか急に静かになり、やがて秘書が同時多発テロ事件の発生を知らせてくれた。
その日の合意は、翌年からソンマ・ヴェスヴィアーナ市で東京大学が行う発掘調査をイタリア文化財文化活動省審議会に申請する、という簡潔な内容だった。この合意までに解決しておくべき条件のいくつかは未解決にもかかわらずデ・カーロ局長が承認してくれた。30年以上の付き合いがあったからである。
問題は、約1万平方メートルの発掘予定地の4人の地権者である。借地代を払って発掘調査を行い、重要遺跡として将来国に買い上げてもらう条件で折衝したが、行政を信用していない地権者は首を縦に振ってはくれない。このとき活躍してくれたのが、生涯を日伊文化交流に捧げ、われわれを親身になって応援してくれたピアチェンティーニさん、通称ピアさん。彼は、フィレンツェのロムアルド・デル・ビアンコ財団が土地を買い上げ、一定期間保有したのち国に寄付するというシナリオを考えてくれた。肝心の買い上げ資金は、4年後に入る東大からの退職金を担保に借金で賄った。
02年の夏、発掘を開始した。ヴェスヴィオ山の北側山麓にある通称「アウグストゥスの別荘」である。ローマ帝国初代皇帝の別荘と呼ばれるようになったのは、この地域で没したと古代文献にあり、1932年の試掘で、堂々とした連続アーチが発見されたからである。皇帝アウグストゥスが所有していた別荘の一部であるに違いないと推定された。もちろん、ローマ帝国にあやかろうとしていたムッソリーニから発掘資金を得ようという目論見の故でもある。目論見は外れ、遺跡は埋め戻されてしまった。
私はポンペイを皮切りにシチリアと中部イタリアで得た発掘成果を、ヴェスヴィオ山周辺の発掘で総合的に比較したいと考え、95年から候補地を探し始めた。当時、ローマ帝国という領域国家、皇帝支配による帝政という体制、ローマ市民権や奴隷制度を軸とする社会制度、多神教の宗教、充実した社会基盤、古代社会としての福利厚生、そしてギリシャ文化との関係など複合的な解明が進み、ヴェスヴィオ山の噴火を構造的に研究する火山学も活発となっていた。このような研究状況の中で、東京大学が新たにどのような貢献が可能かの検討研究に入った。考古学、歴史学、火山学、地理学、植物学、環境学、地球化学、情報工学などの研究者たちと検討を重ね、「火山噴火罹災地の文化・自然環境復元」という災害考古学の視点から「アウグストゥスの別荘」を中心とする学融合の共同研究を開始した。研究蓄積の薄いヴェスヴィオ山北山麓での噴火状況と罹災状況を明らかにして、ヴェスヴィオ山の火山噴火の構造的な解明だけでなく、いかなる復興を遂げたのかを明らかにする目的である。
発掘開始直後に判明したのは、この遺跡が79年の噴火ではなく、その約400年後の噴火で埋没したという事実である。ポンペイ同様多くの出土品に恵まれるはずという期待は脆くも潰えた。そればかりか「火山噴火罹災地の文化・自然環境復元」という焦点もぼやけてきた。諦めてはならないと20年を我慢してきたが、年貢の納め時と覚悟を決めた昨年夏、思いもよらぬ発見があった。ポンペイを襲った噴火時の火砕流の層位が見つかり、その下から遺構とポンペイでも汎用されていた土器類が出土した。創建が79年以前にまで遡る建造物の遺構が見つかった。21年間という我慢の歳月を経てようやく所期の目的のその麓に辿り着いた。
しかし、21年間の歳月は大きな変化をもたらした。最大の変化は、研究を旨とする東京大学がこのプロジェクトの研究費を、財務状況の逼迫から3割削減し、今年もさらに3割削減するというのである。成果が出始めた時点で、研究を中止せよというに等しい決定である。研究大学という看板はどこに行ったのであろう。「アウグストゥスの別荘」と命名した考古学者ほどの知恵はないが、「アウグストゥスの別荘」かもしれないと寄付をお願いする行脚に出るしかない。
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