昨年12月4日に90歳で逝去した速水融さんは、日本に「歴史人口学」を導入した人物だ。歴史家・磯田道史さんは彼を師と仰ぐ。映画化されたことでも知られる著書『武士の家計簿』は、速水さんの手法に倣ったものだという。そんな磯田さんが、速水さんとの思い出を振り返る。
高校時代に訪れた大学図書館
速水融(あきら)先生との出会いがなければ、私の学問人生はありませんでした。私の歴史家としての方向性を決める上で、最も影響を受けた人物です。
先生のことを知ったのは、私がまだ高校生の頃のこと。今でも鮮明に覚えています。
高校3年の3月、高校の制服を着て、地元の岡山大学の図書館を訪れました。当時、私は歴史を専攻することははっきりしていても、どの時代にするかは決めかねていて、受験を終えたところで早速、大学の図書館を訪れたんです。
ところが、入口で「高校生の利用は許可していない」と言われてしまい、落胆していると、あまりに可哀そうだと思ってくれたのでしょう。職員の方が「利用」はダメですが、「見学」ならいいですよ、と言ってくれたんです。それで図書館に入り、別に職員がついて来るわけでもなく、1人で書架の前に行きました。
書架にある歴史書の題名を1つずつ見始めました。旧制第6高等学校時代から集められた岡山大学の蔵書は見事で、いろんな学者の著作がありました。
網野善彦や安良城盛昭など、すでに読んだことがある学者の本も並ぶなかで、“異色の1冊”が眼に飛び込んできました。『近世農村の歴史人口学的研究――信州諏訪地方の宗門改帳分析』という本で、著者名は「速水融」とありました。
速水氏
どうしても中身が気になりました(笑)。しかし、書架の本を開けてしまえば、「見学」ではなく「利用」となってしまいます。でも我慢できません。京都府立大学の合格は決まっていたので、「あと20日もすれば“大学生”だから」と、周りをキョロキョロ見回しながら、ついつい本を開いてしまったのです。
衝撃の1冊
驚きました! 「江戸時代の庶民の暮らし」がテーマなのに、生物学の教科書でしか見たことがないような「生存曲線」(ある種の生物の生活史において、時間経過に従って個体数がどのように減ってゆくかをグラフ化したもの)が描かれていたからです。1973年の初版刊行から16年近くも経っていたのにあまりに斬新で、衝撃を受けました。
あの頃“歴史の本”と言えば、マルクス主義の革命目的史か、無味乾燥な制度史研究ばかり。「宗門改帳」から「農民の結婚年齢」や「平均寿命」といった“数字”をコツコツ出すなんて尋常ではありません。
「なんて学者だ!」と思いました。“数字”が出せるということは、時間や空間が異なる社会との比較も可能になります。その圧倒的な革新性は、高校生の私にも分かりました。
こう語る磯田道史氏の“師”である速水融氏は、1929(昭和4)年生まれ。慶應義塾大学教授、国際日本文化研究センター教授、麗澤大学教授を歴任し、経済史研究に数量史料の利用を積極的に取り入れ、日本に「歴史人口学」を導入したことでも知られ(速水氏の友人でもある仏の歴史人類学者エマニュエル・トッドは“日本の歴史人口学の父”と讃えている)、「宗門改帳」から個人や家族のライフ・ヒストリーを追う、という新しい歴史分野を開拓した。これらの研究成果を数多くの国際学会にも報告し、晩年まで研究意欲を失っていなかったが、昨年12月4日に90歳で逝去した。
親交が深かったE・トッド氏と
それで『日本経済史への視角』や『日本における経済社会の展開』といった速水先生の他の本も読んでみたところ、これまた圧倒されました。
当時、主流だったマルクス主義の歴史学は、「封建社会→工業化→資本主義→共産主義」という「発展段階論」を唱えていました。非マルクス主義的な歴史学にしても、最終地点に違いはあるにせよ、結局、同じような「単線的な進化論」を前提としていました。これに対し、速水先生の本は、人類が通る経済発展の道筋を「1つの系列」ではなく、「2つの系列」で描いていたのです。
速水史学の「2系列説」
速水先生の「2系列説」は、『諸君!』1969年8月号に発表された「新しい世界史像への挑戦」という論文で詳細に論じられています。
これによると、「第1系列」とは、エジプト、インド、中国など、「単線説」で言う「古代社会の経験が特徴的な社会」のことです。この社会は、いわゆる「古代文明」の終焉とともに“化石化”現象を起こし、ごく最近まで“冬眠状態”を続け、ようやく20世紀、とくに大部分はその後半に入ってから「近代化」への胎動を始めました。“政治優先”で、強大な権力をもった少数の指導者によって進められるのが、「第1系列の近代化」の特徴です。
「第2系列」とは、西欧や日本など、「単線説」で言う「封建制→資本主義を経験した社会」のことです。「第1系列」の「古代文明」が花咲いた時期には文化らしい文化をもたず、むしろ“蛮族”“夷狄”とみなされていましたが、「第1系列」の社会や文化との接触が深まるにつれて、社会自身に1つの変化が生じ、いわゆる「中世封建社会」をつくりだし、やがてその「封建社会」の内部で「封建社会」を否定する要因、とくに“経済的要因”が形成され、いち早く「近代化」が始まりました。多くの場合、その移行は「市民革命」を経て行なわれ、その結果もたらされた「資本主義経済」と「議会制民主主義」のセットが、「第2系列の近代化」の特徴になっています。
要するに、「古代文明(第1系列)」と「古代文明の周縁=中世封建社会(第2系列)」という2系列で歴史を捉える見方で、「オリエント―西欧の関係」と「中国―日本の関係」には似たところがある、ということです。これには、「西欧と日本の平行進化」を唱えた梅棹忠夫の「文明の生態史観」の影響もあったように思います。
磯田氏
こんなふうに、社会と経済の歴史全体を“まるごと”しかも“長期”で捉えるところに、他の日本の歴史家にはないスケールの大きさを感じました。
それで「ぜひとも速水先生に教えを乞いたい」と、京都府立大学に在籍しながら受験勉強をして、90年に慶應義塾大学に入ったんです。
ところが、慶應に入ってみると、肝心の速水先生がいないんです!
速水先生は、私がちょうど受験勉強に邁進していた89年9月に、慶應大学経済学部長を退任し、10月に、現在、私が勤めている京都の国際日本文化研究センター(日文研)教授に就任していたんです。
京都と慶應で“行き違い”
つまり、先生が“慶應から京都に”移ったまさにその時に、私はちょうど反対に、“京都から慶應に”来てしまったわけです。
もうガッカリです。どうしようかと、しばらく途方に暮れました。
しかしある時、朗報が入ってきました。速水先生は、京都には通っているけれど、慶應の研究棟地下に先生の研究室がまだ残っているらしい、と。後から知ったことですが、日文研はまだ創設まもなくて、研究室の建物も未完成で、先生も東京にいる時間の方が多かったそうです。
歴史人口学は、大きな研究室を必要とします。扱うデータが膨大で、人海戦術で研究を進めるからです。その頃はまだ、日文研にスペースを確保できていなかったわけです。
慶應には、後に私の指導教官になる日本近世史の田代和生先生がいらっしゃって、部屋がつながっているので、「田代先生の部屋に行けば、速水先生に会える」と分かりました。
すぐに田代先生のところへ行き、「速水先生に学びたくて慶應に入り直したんですが、お会いできるでしょうか」とお願いすると、「一緒においで」と。扉を開けたら、そこに速水先生がいて、ソファーに座ってコーヒーを啜られていました。
「この子は、どうしても速水先生に学びたくて京都の大学を辞めて慶應に入ったのに、“行き違い”になったらしいです(笑)」と。
すると速水先生は、じーっと私の顔を見て、こう言いました。
「出たばかりの僕の本がある」と、『近世濃尾地方の人口・経済・社会』を差し出され、「これ、買うか? 署名を間違えて、自分の著者近影の頁をちぎったのが1冊ある。これなら安く売ってあげるよ」と。私は、「先生のお顔はここで見たらわかるので、内容があるだけで良いです」と買い取って、大笑いされたというのが、速水先生との最初の出会いでした。
それからしばらく経って、先生が「今度、日文研で、宗門人別帳の古文書を全国各地で集める大きな研究プロジェクトを始める」とおっしゃいました。「古文書なら、すいすい読めますから、お手伝いします」と答えると、「おお、ありがとう。じゃあ、東京と京都の往復の新幹線代を出すから京都へおいで」と。
それで京都の研究室を訪ねると、先生がいきなり扉を指さして、「これなんて書いてあるか分かるか?」と言うんです。横文字が書いてあって、「分かりません」と言うと、「『この門をくぐる者、すべての望みを捨てよ』というダンテの『神曲 地獄篇』の有名な1句だ」と。私は、地獄へなんか行きたくなかったので、「なぜ、こんな1句が?」と尋ねると、「歴史人口学の調査研究は本当に地味なもので、若い人は1年や2年ですぐに成果が出るようなものを好むけれど、そういうものではないからだ」と。
実際、歴史人口学の研究室というのは、アニメのアトリエのようなもので、下働きの作業が膨大で勤勉な人にしか務まりません。「大変なところへ来てしまった」と思っても、もう帰るわけにはいかない。相撲部屋に入るような気分でした。
結局その後、学部時代から博士課程まで10年近く、古文書を求めて全国各地を歩き回りました。
ただ先生は、こうも言ってくれました。「『宗門人別帳』が第1の目的だが、少しぐらいなら、君の研究に役立つ史料も写真に撮って帰ってもいいぞ」と。
速水先生や先輩たちは、主に「農民」や「商人」の史料を集めていて、「武士」の研究者はあまりいませんでした。そこで私は、「武士」の家族形態や生活形態がわかる史料も集めていき、これが、後に『近世大名家臣団の社会構造』という私の博士論文にもつながりました。このプロジェクトを通じて、数字で細かく詰めていくという緻密な学問の進め方を速水先生から教わりました。私の『武士の家計簿』も、まさにこの手法に倣ったものです。
速水先生の「庶民の生活史への関心」や「統計的史料へのこだわり」はどこから来るのか、と考えると、やはり家系が大きく影響しているように思います。
速水先生を生んだ家系
速水先生は学者一家の出です。父は速水敬二という哲学者で(敬二は養子に出たので速水姓)、敬二の兄は、農業経済学者の東畑精一です。2人の弟にあたる東畑四郎は、農林事務次官を務め、妹・喜美子は、哲学者の三木清に嫁いでいます(ちなみに1945年9月に三木清獄死の連絡を受けて、豊多摩刑務所に親族を代表して最初に確認に行ったのは当時15歳だった速水先生です)。
そうした家庭環境で、戦争末期、速水家が母の実家である熊野に疎開するなかで、東京で勤労動員された速水先生は、伯父の東畑精一の家に寄宿します。
その家には、近衛内閣の「昭和研究会」の重鎮だった矢部貞治や蝋山政道などが頻繁に来て、「この戦争も必ず終わるから、その後、日本をどう立て直すか、数字で計算して、占領軍が来たらすぐに提案して取りかからないといけない」などと密談していたそうです。それで先生も「『ここに座って、お前も聞け。この戦争もまもなく終わるから、犬死だけはするな』と言われた」と。
緻密な統計へのこだわりというのは、やはりこういう環境が大きかったのでしょう。
1945年4月、都立一中(後の日比谷高校)――同級生には経済学者の宇沢弘文や元文藝春秋社長の田中健五がいました――から、普通は官立学校を目指すところ、戦争末期の混乱で浪人ができず、先生は、やむをえず(ただし慶應にとっては幸いなことに)慶應大学の経済学部に入学し、西洋経済史を学びます。 そして1950年9月、慶應を卒業すると、渋沢敬三が創設した日本常民文化研究所の研究員になり、先生は全国の漁村の史料調査を行うことになります。
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source : 文藝春秋 2020年2月号