◆新連載 作家・朝吹真理子が綴る美術をめぐるエッセイ
絵の裏側が怖かった
動物番組をみているとヌーの群れを探して、猫がときどきテレビの裏にまわっている。しっぽを床にたきつけて苛立ちもまざったふしぎそうな様子で、しばらくすると、憮然とした雰囲気で、にゃーと鳴いて、ヌーを探してくれ、と要求する仕草をする。家族で猫に、ヌーいないねー、とちょっと笑いながら話しかけるのだけれど、似たような気持ちにうんとちいさいころなっていたと思い出す。
大きな絵をひっくり返すと、なかに入れるつづきがあるんじゃないかとばくぜんと信じていた。美術館の壁に絵がかかっているけれど、はずして、裏を見たら、駅舎で待っている裸の女の絵の、むこうに行ってしまう。煙が真っ白く長くたなびく蒸気機関車にのせられたまま帰って来れないのではないかとデルヴォーをみて不安になる。絵本をひらいたりとじたりするたび、みえないところで時間はすすみ、ちょっとずつ鳥が飛ぶ形が変わり、人の装束も変わる。マリア様の目がだんだん閉じてゆく。ありふれた想像だと思うけれど、ふだん絵画の歴史のような大型本を、楽しくぺらぺらめくっては、お姫様ドレスをみると描き写したりしていたのに、急に、みるたび変わっているんじゃないかという恐怖に取り憑かれると、本を持っているのも怖くて、じぶんの部屋から追い出してみえないようにした。
子供のころは怖いものが多い。マンホールの裏は無限にながくつづく闇が筒状に存在していると思ったから踏めない。湿りけのあるあたたかな暗闇が、くちをあけて、人が落ちてくるのを待っている。そんな想像もしていた。おもしろい本も、紙のなかにおちてゆくような感覚になる。文字と文字のあいだの白いところにじぶんが吸い込まれて、気づいたら、白い闇がつづいて小説のなかに入っている。書かれていないことがはじまってしまい、そこからでられない。ひとりだけ怖い話になってしまったらどうしようと思って、とつぜん読めなくなった小説がいくつかある。
裏に虚無が広がっている怖さは、大人になってから読んだ、筒井康隆が編集した『異形の白昼 恐怖小説集』(ちくま文庫)のなかに入っていた、短篇が忘れられない。曽野綾子の書いた「長い暗い冬」という短篇で乱丁本がしかけの残忍な話なのだけれどいま思い出しても背が冷える。
どうして怖いことがあるときまって背中につーっと冷たいものが走る感覚になるんだろう。お腹が寒くなる感覚になったことはない。背中はやっぱり無防備にみられているところだからか。横向きのほうが眠りやすいのに、背中からなにかが入ってくるような気がして、仰向けで寝られるようになりたいとも思っていた。
父の書棚で出会った瀧口修造
裏は怖い、と思っていたけれど、裏が美しいとはじめて思ったのが、瀧口修造のデカルコマニー(*)だった。
*乾いていない絵具を紙と紙の間などに挟み、
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