『広辞苑』の編纂者として知られる新村出(1876〜1967)は、言語学に限らず広範な分野で活躍した。孫で新村出記念財団嘱託の新村恭氏が知られざるエピソードを綴る。
祖父・新村出の日本近代における功績は、学術・文化・教育の分野で、愛情を注いでその基礎をつくり、後進を育てたことにある。
東大では1年だけ、「国語学概説」の講義を行っている。この講義を聴いた、アイヌ語研究の開拓者金田一京助は、「底なしの賛美」を語り、ともに受講した橋本進吉・小倉進平・伊波普猷(いはふゆう)も大きな影響を受け「だからそれぞれ国語学・朝鮮語学・琉球語学を選ぶようになった」と繰り返し述べたという(シリーズ名講義ノート、金田一京助筆録『新村出 国語学概説』教育出版、1974年、金田一春彦「序文」)。
京大に移って言語学の講座を担当し、後に印欧語の著名な研究者となる泉井久之助らを育てるとともに、着任間もなく京大図書館長になって定年まで足かけ26年務め、その基礎を築いたとされている(『京都大学附属図書館六十年史』)。早くから日本図書館協会の会員となり、全国各地で図書館についての講演も行っている。あまり知られていないが、生粋の図書館人でもあった。
大学を離れては、寿岳文章(じゅがくぶんしょう)に和紙研究を托してサポートしたのは知られるところである。兵庫県多可町(たかちょう)にある「杉原紙発祥之地」の碑は新村の揮毫である。寿岳は、和紙研究のシンボル的存在となっている。また、後に古代学協会を創設する角田文衞(つのだぶんえい)に資料を渡して紫式部研究を委ね、角田は大著『紫式部伝』(法藏館、2007年)に集成される論著を執筆するとともに京都市上京区の廬山寺の場所が紫式部の住居跡であることをつきとめた。同寺の庭には、新村筆の「紫式部邸宅址」の碑がある。
高校に関しても多くの事蹟をのこしている。編者となっている国語の教科書や副読本は三十数点を数える。京都府立嵯峨野高校の校歌を作詞し、同校にメッセージをのこしたことは卒業生が皆よく覚えているところである。
また、京都の私立両洋高校の創設に際して援助をしている。創始者の中根正親と付き合いがあったが、校名の「両洋」は東洋と西洋のことであり、この名前が新村出を惹きつけたとも推察される。中学から高校へ学制が変わっていく時期の昭和23(1948)年には、京大を中心とした研究者約50名を3回に分けて自ら同校へ招待し、中根へ教育内容の助言をするよう求めたりもした。
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