国民的歌手・三波春夫(1923〜2001)の生涯は、まさに戦前から戦後の日本の歩みとシンクロした。敗戦後の日本を明るく勇気づけたその歌声の秘密を、長女である三波美夕紀氏が明かした。
父・三波春夫を評するならば、戦争とシベリアを背骨として社会と人を見つめ、世の中の役に立ちたいと藝ただ一筋に生涯を送った歌手、だと思います。その藝を形作った要素を思いつくままにお話しさせて頂きます。その前に申し上げますと、私は晩年11年間マネージャーを務めており、現在も三波春夫に関係する仕事全般の責任者ですので、どうも「父」とは申せず、「三波」とお話しさせて頂きますことをお許しください。
一つは「人々の笑顔」です。新潟の寒村の本屋に生まれた三波は7歳で母親を亡くし、父親は家庭を明るくしようと子供達に民謡を教えました。それで歌うことが好きになり、田植えや稲刈りの時には畔道に立ってラジオ代わりに歌や憶えたての浪曲を歌いましたら「文ちゃん(本名・北詰文司)、いい声だのう。おかげで仕事がはかどるよ」と皆が笑顔で喜んでくれました。「私が歌うと皆が笑顔になってくれる。歌はいいなぁ」。これが歌手への原点でした。
13歳のときに家業が傾き一家で上京。三波は米屋、製麺所、築地の魚河岸で住込み奉公をしました。空き時間には浪曲を語り、皆が拍手喝采の大喜び。浪曲は当時の大衆芸能の王者でした。浪曲師になろうと決心し16歳で「日本浪曲学校」に入学。校長の「君の声は天下を取る」の一声ですぐに南篠文若という芸名でデビューし地方巡業に勤しみましたが、戦争が始まり、20歳で陸軍入隊。ソ連との国境最前線の激戦地へ送られ苛烈な経験をします。
終戦となっても、「日本へ帰る船」と乗せられた筈がシベリアへ到着し、4年間の抑留生活を余儀なくされました。極限状態の生活の中で心底から人間というものを学ばざるを得なかったそうです。
そんな中でも三波は日本人の素晴らしさを見つめました。何も報酬がないにもかかわらず、工夫してきちんとした仕事をする揺るぎ無い日本人の真心も知りました。
労働の合間には皆に請われて浪曲を披露したそうです。「あんたの浪曲を聞いている時だけ日本に帰った気持ちになるよ」と話す仲間達の涙の笑顔が消えぬ様に、皆で生きて祖国へ帰る為に、懸命に語りました。
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