黒井千次『老いの深み』

第7回

平山 周吉 雑文家
エンタメ 読書

等身大の「老い」の日常

「必要以上に若く元気でいたいとは思わない。かといって慌てて店仕舞いする気もない」

 90歳という大台を目前に控えた著者のいつわらざる感慨である。『老いの深み』は読売新聞に毎月連載されているコラム「日をめくる音」をまとめた本で、90歳の誕生日をはさむ5年間の記録となっている。「長く生きてしまったな」という気分と、「それほど長い歳月を自分は生きて来たのだろうか」という信じ難い気分がそこでは交錯する。

黒井千次『老いの深み』(中公新書)924円(税込)

 黒井千次は昭和7年(1932)生まれで、92歳。六三三制教育の第一期生であり、「内向の世代」唯一の生き残りの小説家である。同年生まれには2年前に死んだ石原慎太郎、25年前の江藤淳がおり、数少ない健在者の五木寛之、小林信彦がやはり同年だ。

 そうした華々しい名前の中にあっては地味な存在だが、仕事、家族、時代を普通のサラリーマン、生活者の側から描いてきた。黒井自身、東大卒業後、富士重工業での十数年の会社員生活があり、作家となっても日本文芸家協会理事長、日本芸術院院長を手堅くつとめた実務の人でもある。けっして無頼ではなく、そこらにいる社会人の顔を残したまま、小説を書いている。だからこそ、隣人や知人の老いの日常と実感を、等身大で知ることができる貴重な本であり、「老い」の現実が共感をもって、ひたひたとクリアに感じられてくるのだろう。

 視力の低下はままならない。薬のビンの小さな文字の注意書きが読めない。「見当をつけ、想像力を総動員して内容を推察するしかない」。そんな時、「鈍い夕陽に包まれているような感じでその微小な文字らしきものの連なりを眺めていると、諦めに似た感情がゆっくりと湧いて来るのを覚える」。この感情を「甘美」と思う一方で、「年寄りの単なる甘えではないか」とも疑う。

 誤嚥性肺炎に注意せよと先輩から言われていたのに、その恐怖を味わう。「和室の畳のすべてが立ったり裏返しになったりして押し寄せ、音のない無呼吸の波の如きものとなってこちらを押し転がそうとする」。その時、子供の時に正月の雑煮がノドに詰まった苦しみを思い出す。

 ここには「アンチエイジング」の気負いもなければ、「老人力」といって遊べる余裕もない。時間は刻々とたってゆく。

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source : 文藝春秋 2024年8月号

genre : エンタメ 読書