皇太子明仁 日光疎開の思い出

伏見 博明 伏見記念財団代表理事
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皇太子明仁(1933〜)が終戦を迎えたのは11歳。旧皇族・伏見宮家当主だった伏見博明氏(当時、伏見宮博明王)は、三従兄にあたり、日光に疎開する前の幼少期から、ともに過ごす時間も多かった。

 上皇さま(当時の皇太子)は私の二つ下の学年で、学習院初等科の頃から親しくさせていただいておりました。当時、私たち皇族には校内にも侍従が付いて回り、風邪で病欠しようものなら代わりに侍従が授業に参加して、後から「こういうことが授業で出ましたから、復習してください」と言われるような生活でした。付き合いが許される学友も学校側から5、6人が選別されました。子供心に窮屈さを感じていましたよ。

皇太子明仁 Ⓒ文藝春秋

 ただ、そうした生活の制限には馴れっこでしたし、その中で私は放課後や日曜日、上皇さまとよく遊びました。赤坂御用地にあった東宮仮御所にお呼ばれしたものです。

 私の家は紀尾井町で、現在のホテルニューオータニがある場所にあたります(伏見宮家は約2万1000坪の敷地を有していた)。四谷の学習院初等科は目と鼻の先です。歩いて通っていましたが、ほかの子たちと違って寄り道することは許されず、授業が終わったらまっすぐ自宅に帰ってランドセルを置き、上皇さまのところへ出かけていった。遊ぶといっても今のようにゲームがあるわけじゃありません。よくやったのは、池のそばの築山でのござ滑りです。斜面がけっこう急なので、勢いあまって池に落っこちたこともありました。

 学校ではよく戦争ごっこをしました。騎馬戦です。3人で組んで、上に担がれるのが大将。そういう時は、必ず上皇さまや私が大将になるんです。大将がやっつけられたらチームは負けになるわけですが、他の子供も私たちを叩いたり投げ飛ばしたりできないので、上皇さまや私が大将になるとチームが勝つ。だから大将に担がれる。別に偉いと思われているからじゃなかった(笑)。

伏見博明氏 Ⓒ文藝春秋

 とはいっても、年下とはいえ、上皇さまと遊ぶときは私も十分に注意を払っていました。叩いてしまったりしたら大事ですから、仮に叩かれたりしても、「何を!」なんて思ってはいけないということです。

 戦争末期、中等科時代の昭和20(1945)年3月には日光に特別疎開しました。その前から上皇さまは日光の田母沢御用邸に疎開。私と同学年の生徒は山形の鶴岡に疎開したのですが、私と朝鮮王朝の直系だった李玖さんは、上皇さまの御伴で日光金谷ホテルに疎開したのです。

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source : 文藝春秋 2025年1月号

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