團琢磨(だんたくま)(1858―1932)は明治4(1871)年に岩倉具視使節団に同行して訪米し留学。11年に帰国後、大阪中学校教諭、東大助教授などを経て、工部省三池炭鉱局に入り、三池炭鉱の発展に貢献した。三井家の信任が厚く、大正3(1914)年、三井合名理事長に就任し、大番頭として全事業を統括することになる。これが「反財閥」を掲げる右翼の標的となり、昭和7(1932)年3月5日、日本橋の三井本館表玄関で、菱沼五郎によって暗殺された。世にいう「血盟団事件」である。
作曲家・團伊玖磨(いくま)氏は孫にあたる。
祖父が暗殺された日のことは、よく覚えています。
まず昼過ぎ、父があわてふためいて帰ってきました。母も私も2階にいまして、下から父が「名刺、名刺」と叫んでいるんです。あんまり急いでいるもので、母は2階から名刺入れを投げた。そうしたら、空中で蓋が開いて名刺がバラバラになってしまったんです。父はますますあわてて散らばった名刺を拾い集めて出ていきました。この光景が、目に焼き付いているんです。

私が数え歳で八つの時のことでした。その日はちょうど風邪をひいて、家で寝込んでいたのです。祖父にとって私は初孫でしたから、たいへんかわいがってくれていた。いつも朝の食事によばれて一緒に食べる。そして出社する時に、車に乗せてくれるんです。二丁か三丁行くと、そこで降ろしてくれて、私は歩いて家に帰るんです。当時、車に乗れるなどということは、夢のようでした。
ところがその日に限って、食事も車もなく、祖父は出かけていったのです。それが遺体で戻ってきたのですから、子供心に大ショックでした。
祖父がなぜ殺されたのか、誰も本当のことを教えてくれません。中には共産党に殺されたなどといい加減なことを言う人もいた。当時は右翼なんて言葉はありません。国中が右翼のようなものでした。超国家主義者に殺されたわけですが、子供には昭和の動乱は難しすぎました。誰も教えてくれないなら、自分で調べよう。この事件が私にとって、社会への開眼となったのです。

近代的な合理精神
祖父は14歳でアメリカに留学し、大学で鉱山学を勉強しました。海外生活が長かったせいで、何かというと英語でブツブツ言っていた。私のことを「ベベ」と呼んでましたが、これはどうも「ベビー」と言っているのがそう聞こえたのでしょう。アメリカには強い愛着をもっていたようですね。
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source : 文藝春秋 1989年9月号

