テロを利用した軍部が国の運命を変えた
前回に引き続き、日本近現代史におけるテロに通底する地下水脈について考えてみたい。
近現代日本の歴史の多くの部分は、テロと謀略、あるいはクーデターによって編まれてきたと言っても過言ではない。要人へのテロによって国家の運命が大きく左右されてきた。無論、これはかつての日本において市民的権利が認められていなかった故の悲劇であったとも言えるわけだが、動機が正しければ権力者を撃つ、あるいは暴力によって現状変革を断行することを許容する風潮があったようにも思える。
明治初期のテロ決行者たちをつぶさに見ると、そうした動機至純主義的なケースが多い。例えば、明治11(1878)年5月14日に赤坂の御所に向かう内務卿・大久保利通を、島田一郎(加賀前田藩)ら不平士族6名が日本刀で斬殺した際、彼らの持っていた斬奸状には「政事の独裁」「内乱の醸成」「国財の徒費」など、大久保の5つの罪状が挙げられていた。そこには、自分たちの行為はまさに義にかなっているとの確信が満ちている。それが殺害の残酷さにもつながっている。
明治維新後まもない頃の要人暗殺を詳しく見ていくと、決行者(犯人)側の動機が分類できることに気づく。そしてそのパターンは、明治初期のテロを出発点として、大正から昭和期のそれと地下水脈でつながっているのである。
動機に見る2つのタイプ
動機は概ね2つのタイプに分かれると言っていいだろう。ひとつは、体制変革の中心にいる政治指導者を襲うテロである。国家の進むべき道を誤らせる国賊を「天誅」として抹殺する、これをAタイプとする。もうひとつは、日本社会を欧米型の価値規範に方向転換しようとしている要人を、国粋主義的な怒りから襲うテロだ。こちらの攘夷型をBタイプとする。このAとBの2つがこの国の地下水脈に存在するのだ。極端に言えば、近代日本においては、この2つのタイプ以外にテロは存在しなかったと言えるかもしれない。
具体的なテロ事件にそって検討していこう。まず、Aタイプのテロの始まりは、明治2(1869)年9月4日に新政府の兵部大輔、大村益次郎が惨殺された事件である。京都の長州藩宿所に宿泊中の大村は、同じく長州藩の士族たち8名に急襲された。大村はその場からうまく逃げおおせたが、傷が悪化して2カ月後に死去している。
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source : 文藝春秋 2023年9月号