井上準之助(いのうえじゅんのすけ)(1869―1932)は大分生まれ。日本銀行に入り、横浜正金銀行頭取を経て大正8(1919)年に日銀総裁、大正12年、第二次山本権兵衛内閣の蔵相になる。昭和2(1927)年の金融恐慌時に再び日銀総裁として難局に当たる。昭和4年、親友の浜口雄幸の内閣に蔵相として入閣し、デフレーション政策をとり金解禁をおこなった。農村疲弊は井上のせいと思いこんだ血盟団員小沼正により暗殺される。
四男の四郎(しろう)氏は日銀理事を経てアジア開発銀行総裁。現在は山一證券国際業務最高顧問。
昭和38年にケネディ大統領が暗殺された時、確か「ニューヨーク・タイムズ」だったと思いますが、過去に暗殺された人間の例として父のことを挙げていたので、「もう30年以上前のことなのに……」と驚いたものでした。また、その時ふと思ったのは、原因がよくわからないまま死んだケネディよりも、政治家として父は幸せな死に方をしたということです。なぜなら、父は「政治的信念」に殉じて死んでいったとも言えるからです。故浜口雄幸首相と父のことをモデルにした、作家城山三郎さんの小説の題名ではありませんが、まさに、「男子の本懐」とも言える最期であったと思います。
父がテロリストの凶弾に倒れて亡くなったのは、昭和7年2月9日のことでした。民政党の選挙委員長として、さる立候補者のための応援演説に出かけた折りの悲劇でした。当時は民政党は野党ですから、警備は全くなかった。車から下りて数歩歩いた途端撃たれたもので、即死同然でした。

その先年浜口雄幸総理が遭難され、わが家にも、爆弾が仕掛けられたり、短刀が送られたりしておりましたので、家族としては半ば覚悟していたと言っていいと思います。当時私は16歳。もともとは四男なのですが、男の兄弟が皆早く亡くなっていたために、若年ながら、葬儀では会葬者の方々に親族を代表して挨拶した記憶があります。
皮肉な事に、父の死の数日後、新しいゴルフクラブが一式届いたのです。それまで旧式の木のシャフトのクラブばかり使っていた父のために、スチール・シャフトのものを送って下さった方がいたからで、その中からドライバーを一本いただいてお棺に納めました。
父のゴルフ好きは相当なもので、「日曜日にうちにいると面会ぜめにあう。忙しい時ほど、健康のためにもゴルフはいいよ」と足繁く出かけていたようです。もっとも、腕前の方は終生ハンディ30台だったと言います。また、東京では最初のゴルフ場である「東京ゴルフ俱楽部」の設立を呼び掛けたのも父であったそうで、土地の契約から、金銭の出納にいたるまで、随分骨を折ったようです。
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source : 文藝春秋 1989年9月号