語られない苦しみを聴きとる
世界の眼で見たとき、日本を代表する「リベラル」として語り継がれる人は、圧倒的に村上春樹だろう。福沢諭吉や丸山眞男にも海外に訳された書物はあるが、読まれた部数は比較にもならない。
しかしその活躍が始まった1980年代、国内での評価は低かった。村上が描く「自由」はバブル的な資本主義の下、ナンパやセックスをエンジョイする自由に過ぎず、底が浅い。ベストセラーを重ねるごとに、そんな偏見が強まった。
文芸評論家の加藤典洋は、初めてそれに異を唱えた一人として知られる。1996年に単行本が出た本書(文庫本の2巻目まで)は、軽めの風俗小説として読み流されてきた村上の全長編を、大学のゼミ生との共同作業を通じて徹底的に解剖し、その深奥に迫った研究である。

もっとも村上がノーベル文学賞の候補に挙がってからの「後出し」で、先見の明を讚えてもしかたがない。むしろなにが加藤をそこまで惹きつけ、村上の作品に寄り添わせたかにこそ意味がある。
『風の歌を聴け』と『ノルウェイの森』に顕著だが、加藤は村上が描く主人公を「信頼できない語り手」と見なす。作品の中の時間軸を緻密に復元すると、「僕」が語る内容には欠落や嘘があると判断した方が、ストーリーのつじつまが合うというわけだ。要は深読みである。
それは主人公や作者を貶める試みではない。単に批評家が「突飛な読解」をして、自らの鬼才ぶりを誇るのでもない。
かつて起きたことを人が素直に語れないとき、そこには感情の脱臼や骨折とも呼ぶべき、トラウマや傷つきがある。主人公の「僕」の見えない苦しみに思いをめぐらすことで、加藤はそうした吃音(どもり)気味の小説ばかりを書き続ける、村上の実存に手探りで近づこうとしてゆく。
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