「地域の人夫さんたちがつくっとったんでないかな」
地域の森林開発に詳しい大田町会長を訪ねると、きれいに保管整理された書類ファイルを片手に此ノ木隧道のあらましを語ってくれた。
「市で台帳が保管されてなかったもんで、県の森林部に確認したことがあります。それでわかったのが、昭和17年(1942年)に着工して翌年に470mの林道を開設したってことですね。そして、そこからちょっと間が空いて昭和35年(1960年)にあのトンネルができたようです。
工事についての正確な書類は残ってないけど、当時農林関係の仕事のほとんどは県の直営(注:建設会社を通さずに行う工事)でやっとったから、地域の人夫さんたちがつくっとったんでないかな。当時、集落の土木工事は直営が多かったんですよ」
当時の用地を記録した資料にあたると、林産物もさることながら、耕作地が多数あったことがわかる。トンネルを抜けた先には数々の田畑があり、大八車(江戸時代から昭和初期に使われていた木製の人力荷車)が通れる道が地域住民にとって必要だったことが推測できるわけだ。そして、当時の土木工事の多くは県からの直営で行われていた。
そうした前提をもとに考えると、農作業が終わった時期に地域住民が人夫として力を合わせてトンネルを完成させたと考えるのが妥当だ。
「今なら機械で一気に掘れてしまうかもしれないけど、当時は掘削のための機械なんてなかった。それに、この辺りの地質は泥岩で、ダイナマイトを使ってトンネルを掘ろうとすると、処理する泥が大量になって大変なことになってしまう。だから、手作業で掘ったんだろうね。作業中に雨が降ろうと雪が降ろうと、いざ穴の中に入ってしまえば関係なくなるのも、手で掘る利点としてあったと思いますがね。
トンネルができた当初はおそらく素掘りのままだったんです。けれども、経年による風化で天井から土がぽろぽろ落ちてくる。それを防ぐために東屋状の木の庇を設置したんでしょう。この集落にすべてをわかってる人はもういないし、正確な記録が残っていないだけにはっきりとしたことはいえませんが、そう考えています」