通常、新規の感染症のワクチン開発には10年かかるとされる中で、1年未満というごく短期間のうちに実用化にたどり着いた新型コロナウイルスの「mRNAワクチン」。快挙であると同時に、ワクチンにとどまらず、薬となる物質を体内で作らせる「mRNA医薬」の時代の幕開けを印象づけた。

 医学に多くの可能性をもたらした「mRNAワクチン」はなぜ「最速」で臨床試験に入ることができたのか。科学ジャーナリスト・須田桃子氏の『合成生物学の衝撃』より一部抜粋して紹介する。(全2回の2回目/#1を読む)

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ヒトにゲノム編集を用いる是非

 賀(編集部注:ゲノム編集した双子の赤ちゃんを誕生させた中国の遺伝子学者)は医師ではなく、2010年に留学先の米ライス大で生物物理学の博士号を取得しているが、当時の研究テーマは感染症や経済の動向を予測する数値計算だった。帰国後の12年に深圳で設立したベンチャーもDNAの解析装置を作る会社で、ゲノム編集とは無関係だ。

 米メディアによると、賀は16年ごろからゲノム編集研究への参入を試みている。この分野の著名な米国人研究者たちにメールを送ったり直接訪問したりし、17年には米国であった二つの会議でヒト受精卵の改変を含む基礎研究の成果を発表した。臨床研究について事前に知らされ、思いとどまらせようとした研究者も複数いたという。

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 賀が香港で登壇したのは、二回目のヒトゲノム編集国際サミットだった。皮肉にも、科学者や倫理学者がヒトにゲノム編集を用いる是非や健全な研究の進め方を議論するために集った場で、現実が圧倒的なスピードで議論を飛び越していく様があらわになったのだ。会議にはダウドナも出席していた。報道写真に写った彼女の顔は憔悴しているように見えた。

 独仏英などは遺伝子操作した子供を出産させることを法律で禁じており、中国でも禁止する指針がある。賀は大学を解雇され、2019年12月に懲役3年の実刑、罰金300万人民元(4700万円相当)の判決を受けたと報じられている。だが、第二、第三の賀がいつ登場しないとも限らない。

 本書の主人公の一人、クレイグ・ベンターは第九章で、何をしてよいのかを決めるのは「社会の基準」だと述べた。

 だが、あまりに拙速なゲノム編集ベビーの誕生は、社会が「基準」について合意形成をする前に現実が先行してしまう恐れが多分にあること、合成生物学(やそれに類する試み)がミニマル・セルや大腸菌のような微生物にとどまらず、すでにヒトをも対象にしつつあることーーという二つの大きな問題を私たちに突きつけた。

 もう一つの大きな出来事は、2020年にパンデミック(世界的大流行)を引き起こした新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のワクチンの開発である。