同じインタビューでは、《僕はずっと、ジャニーズの枠を広げたいという意識が強くて。ジャニーズをよく知らない人たちにも、ジャニーズっていいなと思ってもらいたいんですよね。自分が外に出ていくことがグループとジャニーズ全体に返ってくると信じて進んできたんです》とも述べている(※1)。
実際、岡田の俳優としての活躍が、事務所の後輩たちに道を切り拓いたことは間違いない。先月、コロナ禍による約1年半もの公開延期を経て封切られた『燃えよ剣』でも、岡田演じる新選組副長の土方歳三を慕う沖田総司を、Hey! Say! JUMPの山田涼介が好演している。山田は映画公開を前に、個人での活動から《何かJUMPに還元できるものを持って帰ってくるっていうのがルールだと思っていて》と語ったが、これも岡田の姿勢を見て学んだものだろう(※2)。
ジャニーズ入りのきっかけは…
大阪出身の岡田がジャニーズ入りするきっかけは中学3年だった1995年、日本テレビの『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の「ジャニーズ予備校」という企画に家族が応募し、合格したことである。
企画は途中で打ち切りとなったが、夏休み中にジャニー喜多川社長(当時)に呼ばれると、新たにV6というグループが始まると言われた。わけもわからないうちに9月に入ると東京の中学に転校し、入所からわずか3カ月でデビューする。
グループでは最年少、しかもほかのメンバーはデビューまでに何年もダンスなどのレッスンを積んでおり、追いつくために必死になって練習しなければならなかった。
アイドルとして時間に追われながらも、高校時代には毎日、帰宅後に映画を3本見るとか、小説を1冊読むとか、自らノルマを課してはこなしていたという。このころには個人でもドラマに出演する機会も増えており、芝居を勉強する必要を感じていた。
ノルマを課したのには自分探しという意味合いもあったようだ。本も小説から宗教書や哲学書にいたるまで手あたり次第に読みまくり、気に入った考え方や言葉があれば、自分の内側に取り込もうとした(※3)。
事務所には内緒でバイクの免許を取得
20代になると乗馬クラブに通い出す。そこには17歳のときの苦い経験があった。あるドラマで、監督から急にバイクに乗るシーンがほしいと言われたが、ジャニーズ事務所はバイク厳禁のため、その要望に応えられなかったのだ。それが心残りで、撮影が終わるとすぐ、事務所には内緒でバイクの免許を取りに行った。乗馬を習い始めたのも、いずれ時代劇のオファーが来たときに「馬に乗れません」とは絶対に言いたくなかったからだった(※4)。
岡田のなかには、《自分は天才ではないから、何かをやるんだったらとことんやろう》という思いがあったという(※5)。事務所の先輩たちの活躍を間近に見ながら、自分はどうやってこの世界で生きていくか、どう表現していくか自問自答を続けるうちに出会ったのが、アクション映画だった。
初めて本格的なアクションに挑戦した作品は、2005年に公開された『フライ,ダディ,フライ』である。このとき、同作の原作者で脚本も担当した作家の金城一紀と出会い、「王道のエンタテインメントをやろうぜ」と意気投合、これが2年後にドラマ『SP 警視庁警備部警護課第四係』へとつながる。