父と寄り添って写る写真を私に見せてくれたのは和子本人である。2011(平成23)年1月にインタビューしたときのことだ。
「この写真は父が教育総監になってまもない頃、新聞社の方がお見えになって写したものです。私は父に始終くっついていましたから、そのまま横にいてもいいことになったんですね」
このとき和子は83歳。29歳で修道女となり、長く岡山のノートルダム清心学園の女子大学長をつとめたあと、同学園の理事長になっていた。ベストセラーとなった『置かれた場所で咲きなさい』が刊行されるのは、この翌年のことだ。
「あの場にいることができて本当によかった」
和子は十数枚の写真を見せてくれたあと、「今朝、あなたにお見せする資料を探しておりましたら、こんなものが出てきました」と、一編の作文をテーブルに広げた。
5月30日という日付があるその作文は〈今はもう此(こ)の世にいらつしやらないお父様ですけれど、前はいつも私をおひざの上に乗せて、可愛がつて下さつたお父様です〉と始まっている。書かれたのは、二・二六事件の約3か月後である。
病気のときは枕もとで本を読んでくれたこと。電話室で飛びついて眼鏡を壊してしまったときも叱られなかったこと。宴会の帰りには必ずおみやげを持ってきてくれたこと……。
小学生とは思えない端正な文字に驚くと、和子は「こんなきれいな字、私、その後は一度も書けたことがございません」とユーモアたっぷりに笑った。
「とにかくね、どんなに父が好きかということを、一生懸命書いたのだろうと思うんです」
和子は1927(昭和2)年2月、旭川市で生まれた。長子である姉とは22歳の年齢差があり、あいだに兄が2人いる。
陸軍第七師団の師団長をつとめていた錠太郎は当時52歳。43歳になっていた母が遅い出産をためらうと、「男が子供を生むのならおかしいが、女が生むのに何の恥ずかしいことがあるものか」と言ったという。
「生んでおけ、と父が言ってくれたおかげで私は命をもらいました。そして、9歳までに一生分愛されたと思っています」
その娘が、父の凄惨な死を至近距離で目撃したのだ。これほどむごい話があるだろうか。
だが和子はこう言った。
「いいえ、私はあの場にいることができて本当によかった。私がいなければ、父は自分を憎んでいる者たちの中で死ぬことになりました。私は父の最期のときを見守るために、この世に生を享(う)けたのかもしれないと思うときがございます」