2日経って母と弟が高校に来て、その後に父も合流した。そして小山さんは家族の無事と同時に家を失ったことを知ったという。兄弟が将棋大会で入賞するたびに飾っていたトロフィーも、愛用の将棋盤も毎日のようにネット対局をしたパソコンも、みんな流失してしまった。
避難所でも毎日のようにネット将棋を指していた
釜石高校の体育館は家を失った人々の避難所になり、しばらく同級生と校内の別の場所で寝泊まりしていた小山さんは、家族と一緒に体育館の一角の段ボールで仕切られたスペースで暮らすようになる。体育館にはパソコンが数台置いてあり、ネット環境もあった。小山さんは将棋倶楽部24で対局を始める。
「1回何分までという目安はあったように記憶しているのですがあまり使っている人はいなくて、ほとんど制限なく対局できました」
しばらくすると父は仕事のためにノートパソコンを購入。夜は「ネット将棋をするといい」と小山さんに貸してくれた。
被災したけれど、「今は将棋どころじゃないと思ったことも、言われたこともありません。眠れないようなことも無かったです」。小山さんの口からは苦労や愚痴の一つも出てこない。数カ月に及んだ避難所暮らしからやっと仮設住宅に移った時期の記憶も曖昧だ。まるで家族が無事なら、将棋さえできれば、そこまで落ち込むことではないと思っているようだった。
岩手の中心地の盛岡は大きな被害がなかったこともあり、4月には県代表を決定する大会が例年通り行われた。「大会はかなり励みになった」という小山さんは、避難所からアマ竜王戦や高校選手権の岩手県大会に参加。高校選手権では代表を勝ち取っている。
震災直後、東北の将棋関係のネット掲示板には「××地区の●●さんは無事でした」という情報が盛んに書き込まれた。その中には「釜石の小山兄弟ご一家は無事。家が流されて避難所にいる」という情報もあった。それを知って避難所を訪ねてくる人もいた。
「将棋大会で知り合った方たちが、盛岡や北上など遠くから私たち家族に会いに来てくれたのです。親にお見舞いを渡してくれ、私や弟とは将棋を指しました。将棋関係の人のつながりは素晴らしいなと嬉しかったですね」
日本将棋連盟からは、棋士と女流棋士が被災地を訪問。釜石市内の小学校を会場に将棋ファンを集めての交流会も開かれた。小山兄弟をいつも応援していた釜石支部の人たちは、二人が優先して行方尚史九段の指導対局を受けられるようにしてくれた。