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坂本の死後も「稲妻強盗」の話題は消えず…

 坂本の死後も「稲妻強盗」の話題は消えなかった。新聞の見出しを見ても「二代目稲妻強盗」「稲妻強盗と名乗る賊」「偽稲妻」「静岡の稲妻強盗」……。主なものを時系列で挙げてみる。

▽けがを負いながら坂本を取り押さえた浦和町の材木商に地元町会などから50円(現在の約21万円)の寄付があり、4日間、俳優を雇って「稲妻強盗」の演劇を上演することになった(1900年4月17日付読売)


▽坂本の弁護人を務めた弁護士は広告に「徳川稲妻弁護士」という名称を使っているという投書(同年6月6日付東朝)。「徳川」とは詐欺に問われた徳川一族の伯爵


▽やはり強盗で12年の刑を受け、服役していた坂本の実父が出獄した(1901年1月14日付東朝)


▽坂本の遺骨は笹寺に埋葬され、墓標が建てられたが、辞世を刻んだ石の墓碑をという声が出たものの、その筋に却下された(1902年3月17日付東朝)


▽「稲妻強盗の妾」で「祈祷師」として何人もから金を巻き上げていた女が逮捕され検事局に送られた。密告したとして坂本から35カ所の傷を負わされ、不遇のすえの犯行(1911年付9月7日東朝)

処刑から10年以上たっても「稲妻強盗の妾」がニュースに(東京朝日)

「稲妻強盗」といえば、誰でも知っている「悪のヒーロー」として一種の「ブランド」になっていたのだろう。実際、明治の演劇史関連の資料を見ると、フィクションも交えて「稲妻強盗」が演目に取り上げられていることが分かる。いわば「ブーム」になっていたのだ。

「この囚人は最も激烈な虚栄心があって、常に誇大な妄想があふれ、自己の虚栄心を満たすためにはどんな暴行も…」

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「田中一雄手記 死刑囚の記録」にはそんな坂本の人物像の記述がある。

▽犯罪意思の起点 性質剛情、強暴で、情欲を満足させることだけを思い、何事も忍耐することができない。従って、人に負けることを嫌い、驕奢淫逸の心ますます増長し、ついに強盗殺人をするに至る
 

▽身体強弱 健康


▽飲酒の習慣 17~18歳から酒を飲み、常に5合(900CC)を用いる


▽備考 本人は死刑執行5~6カ月前から特に謹慎悔悟の体で、典獄の説諭や教誨師の教訓は実行しないことはなかった。担当の看守も戒護上、坂本のような手のかからない者はいないと言うに至った。本人が今後監督の下に5年を過ごせば、あるいは剛情は名誉心に変わり、再び犯罪を起こすことはないまでになるかもしれない。法規はそうした余裕を与えず、試験中に刑が執行される不幸を見るのは甚だ遺憾に耐えない
 

 本人は平素歌を詠むことを好んでいる。だから、歌をもって教誨をする時は彼にはとても了解しやすい。この囚人は最も激烈な虚栄心があって、常に誇大な妄想があふれ、自己の虚栄心を満たすためにはどんな暴行も意識せず、思うままにする。従って、その性質の残忍なことは実に驚くほかはない
 

▽心理 本人は虚栄を満たすためには、もしくは、虚飾を世に現すためには、どんな暴行もあえてすることもいとわないようだ。犯罪者の間で「大罪人」と呼ばれるのは大きな尊敬を受けるものと思っている。かつ、その強剛と美見と勇気とを誇り、情婦の恋が自分に寄せられるのは大きな快楽としているようだ。そして、犯罪の成功と敏活とは、仲間に対する彼の特色と言うべきだ