坂本の「残忍な性質」はどこから来たのか
よく観察しているといえるだろう。それにしても、教誨師が指摘する「残忍な性質」はどのようにして生まれたのか。
母の死と継母の「虐遇」、父の賭博癖、犯罪への傾斜など、成育過程に重大な問題があったことは間違いない。これなら転落しても不思議はないとさえ思わせる。それでも、犯行の残虐さは常識を超えている。犯行を繰り返しているうち、感覚がマヒし、教誨師が指摘した虚栄心や誇大妄想がエスカレートしたのだろう。
一方で「改心」のありようは劇的で、本来正しい教育や監督があれば道を踏み外さなかった可能性を思わせる。
1つ指摘できるのは時代状況だ。明治維新後、初の対外戦争だった日清戦争で、日本は清(中国)に勝利。国民は一等国への仲間入りに自信を持ち始めた。のぼせたと言ってもいい。「世調は頽廃の一語に尽きた。戦捷(勝)のうかれは乱れとなる。賄賂は公行、奸商は跳躍する」=添田知道「演歌の明治大正史」(1963年)。
政治も官僚も腐敗して疑獄が続出。金権が横行した。それを覆い隠すように広がったのが「バンカラ」の気風だった。「軍人は至るところでモテた」「どことなく細身で、しかも原色に彩られたような『文明』の謳歌に代わって、無骨な野暮ったい国粋ムードが世の中にも流れるようになった」と松本三之介「日本の百年3強国をめざして」(1978年)は指摘する。
当時の書物も書く。「相撲がメッキリ新芽をふいて年々盛んになったと思えば、武士道もまた再発して、撃剣や柔術の稽古をしたり剣舞などをする者が増えたようだ」=岡本昆石「近世百物かたり」(1903年)。「チボ(スリ)や空き巣などよりタタキ(強盗)の方が男らしい」とする空気が社会の一部にあったようだ。
「國民新聞」を創刊した徳富蘇峰が「野蛮の気象」と称した時代の無骨な風潮が新聞にも影響。事実から離れた、興味本位で荒っぽい報道が重なった結果、「稲妻強盗」が生まれたともいえる。悪は悪として非難し、断罪しなければならないが、事実の正確な把握が前提になるのはいまも同じだ。
【参考文献】
▽「警視庁史第1(明治編)」 1959年
▽森長英三郎「史談裁判第3集」 日本評論社 1972年
▽福良竹亭「新聞記者生活五十年」 1939年
▽阪井弁「明治畸人傳」 内外出版協会 1903年
▽ 加太こうじ「伊藤博文と稲妻強盗」=「『明治』『大正』犯罪史」(1980年)所収
▽大笹吉雄「日本現代演劇史明治・大正篇」 白水社 1985年
▽「報知新聞探偵実話 稲妻強盗前編」 三新堂 1899年5月19日
▽「田中一雄手記 死刑囚の記録」=「近代犯罪資料叢書7」(1998年)所収
▽秋庭太郎「東都明治演劇史」 中西書房 1937年
▽添田知道「演歌の明治大正史」 岩波新書 1963年
▽松本三之介編著「日本の百年3強国をめざして」(改訂版) 筑摩書房 1978年
▽岡本昆石「近世百物かたり」 岩本武知 1903年