「坂本は単純な強盗は認めても、殺人の絡むものは否認したようである」
その読売は4月2日付で「稲妻強盗の真相」を載せた。この記事では、埼玉で逮捕されたのが「伊藤正隆」だと訂正されたうえ、警視庁刑事が樺戸集治監で坂本と同房だった男を取り調べたうえ、留置場の節穴から「伊藤正隆」を確認させた結果、坂本啓次郎に違いないことを確かめたとした。「警視庁史第1(明治編)」と重ね合わせると、逮捕から身元確認に至る経緯がほぼ想像できる。坂本は洲崎遊郭などで「伊藤正隆」を名乗り、女たちに「自分は伊藤博文(初代首相)の落としだねだ」と吹聴していたという。
横山哲「明治の殺人事件史(1)稲妻強盗 坂本慶二郎」=「捜査研究」1985年3月号所収=には、自供を得るため「玉」を使った話が出てくる。当時警察が日常的に使った手法で、刑事を偽って坂本と同じ留置場に入れ、親しくなって犯行を聞き出したという。
「史談裁判第3集」によれば、浦和地裁があらためて調べると、既に神代村の強盗殺人で東京地裁の予審に付されていることが分かったので、東京地裁に送られた。
ところが、それより前に坂本よし方強盗殺人その他で水戸地裁の予審に付されていることが判明。二転して水戸地裁に送られた。1899年5月19日付読売には「稲妻強盗の護送」の記事が見える。
「昨日午前9時30分、上野発の列車にて水戸地方裁判所へ護送されたが、評判の高い大賊のことで、上野駅は見物人の山をなし、非常な雑踏を極めた。啓次郎は浅黄色のお仕着せを着て笠を被り、鼻下に八の字ひげをたくわえていたが、発車前、辞世だとして歌一首を詠じた」
水戸の予審の詳細は分からないが、「坂本は単純な強盗は認めても、殺人の絡むものは否認したようである」(「史談裁判第3集」)。
始まった一審、法廷は荒れた
一審が始まったのは同年10月2日。10月3日付報知の記事を見てみよう。
本日、傍聴人は早暁から裁判所の門前に詰め掛けた。巡査4名出張して取り締まり、午前8時ごろから入廷させた。その数は200名余。やがて稲妻強盗こと坂本慶二郎は看守3名に警衛され、腰縄、手錠で入廷した。傍聴人はこの凶賊の面体を見ようとひしめき合う。慶二郎は少し衰弱した様子で顔色青白く、鼻下に八の字ひげをたくわえ、頭髪は五分刈りで悠然と着席。そのさまは相変わらず大胆不敵に見えた。
検事の主張のあと、裁判長が尋問したが、「傲然として一々答え、やがて被告慶二郎が病気のために中途で閉廷した。当日、傍聴人は彼の図々しさに驚いている気配があった」と報知の記事にあるが、実際は「稲妻強盗暴れ出す」と翌4日付報知の見出しにあるように法廷が荒れたのが実態だった。
「史談裁判第3集」が菊巒加門「稲妻強盗公判筆記」を引用してコンパクトにまとめているので、それを基に書く。