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死刑確定後の坂本に起こったこと

 年が明けた1900(明治33)年2月9日、大審院(現在の最高裁判所)は坂本の上告を棄却。死刑が確定した。2月17日付東朝には、東京・四谷の通称・笹寺の住職が死刑執行後の遺体の引き取りと埋葬を願い出たという記事が載っている。

 それを聞いた坂本は涙を浮かべ、遺書を郷里の菩提寺に送ってくれるよう典獄に依頼。また2首詠んだ。「暁の述懐 暁に啼(な)く鳥の音に寝覚めして聞くもうれしき笹寺の鐘」「被害者を悼みて 入相(いりあい=夕暮れ)の鐘を聞くにも無き人を思へ(え)ば落(おつ)る我(わが)なみだかな」。

 当時の判決から刑執行までの期間は短い。坂本が死刑に処されたのはその2月17日。18日付の新聞各紙はそれなりの量の記事を載せている。コンパクトな読売の記事は――。

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 稲妻強盗の臨終

 殺人、強盗、あらゆる悪事を思いのままにして、所業が残忍で心事が冷酷なことは、あれでも人間の部類に入る者かと思わせる稲妻強盗・坂本慶二郎はさる9日、大審院で上告を棄却され、司法大臣から処刑の命令があった。一昨日、指揮書が送達され、鍛冶橋監獄署は昨日午前8時5分、慶二郎を監獄から引き出して死刑執行の旨を伝えたが、彼はさらに臆した様子はなく、典獄、課長をはじめ、これまで世話になった看守に向かって挨拶。2人の看守が護衛して市ヶ谷監獄署に送った。同監獄では、羽佐間控訴院検事、吉田書記らの係官立ち会いのうえ、同9時30分に慶二郎を絞首台に上らせ、12分間で刑の執行を終えた。慶二郎、この日の着衣は白木綿の綿入れに黒の羽織を引っかけ、白足袋を履いていたという。彼は絞首台に上る際、立ち会いの人々に向かって静かに暇乞いをし、辞世めいたものを朗吟したという。

 かねて散る花と思ひ知りつつも今日の今とは思はざりけり

 悔ゆるとも罪のむくひ(報い)はにけされば(逃げざれば)あしき名をこそ後にのこせり

 2首目については、東朝と報知は「悪しきはなせぞ後の世の人」とし、担当した教誨師の「田中一雄手記 死刑囚の記録」=「近代犯罪資料叢書7」(1998年)所収=はそれとも違って「悔ゆるとも罪の報ひは免れねば悪しきな為(な)しそ後の世の人」となっている。当局側で手を入れたのではないか。

 各紙には、坂本の郷里・茨城県の被害を受けた地域の住民約7000人が組織した「安心會(会)」が、近々大祝賀会を開く予定、というニュースも見える。

死刑執行の模様を伝える報知

 死刑執行10日後の2月27日付東朝の演劇案内では「眞(真)砂座」の3月1日からの演目の中に「稲妻強盗」が見える。

 秋庭太郎「東都明治演劇史」には「同月の眞砂座は(市川)八百蔵、(澤村)訥升、(市川)鶴之助、(實川)延二郎一座で『白石噺(ばなし)』『五變(変)化』『紙治』『稲妻強盗』を所演し」とある。

 東朝3月13日付「眞砂座劇評」によれば、「稲妻強盗」の「探偵実話」と、当時社会問題になっていた足尾鉱毒事件の「実話」を組み合わせた新作歌舞伎のようで、鶴之助が稲妻強盗その他を演じて好評だったという。