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 舞台劇と映画では、人のいない風景を「空舞台」と呼びます。逆に幕が上がったときから役者が舞台にいる状態を「板付き」と呼び、演出としては厳密に区別します。これはシーン単位に関する区別ですが、カット単位でも空舞台に被写体がフレームインしてくることで「ドラマの予感」が生じ、意味が発生します。舞台に人の出入りが始まり、役者と役者が絡み、芝居やセリフに乗せて情の動きが生じることが「劇(ドラマ)」の本質なのです。その葛藤(コンフリクト)が内圧を高め、クライマックスでカタルシスが起きて解放され、感情が観客と共有される。これが一般的な「作劇」のセオリーです。だからアニメーション文化でも「人の動き」による表現が重視されてきたわけです。

物語性のある新海誠作品

 ところが初期新海作品は、そのセオリーとは根源的に異質です。むしろ光や雲の変化に動きをつけ、淡々としたモノローグを重ね、時に言葉を途絶させる。代わりに落ち着きのある音楽がカットの断層を貫きます。この積みかさねで、大きな情動が観客側で自発的に醸成されます。美術が「作品の世界観」を主張し、目立たない領域で心理の奥底深く作用する。だからクライマックスで観客は「風景と心情」を登場人物と自発的に共有し、カタルシスを覚える。物語性のある作劇にはなっていて、ポエムと同じではないのです。

 新海誠監督作品に多い独白も、絵コンテ上では「OFF」として音響の現場に指示するものです。動きや出番のある「ON」の逆の意味です。後ろ向きなど口の写らないカットも「OFF」になりますが、アメリカ作品では誤解なく伝える目的でリップシンク(口の動きへの同期)が重視されるため、背景だけ声だけの「OFF」演出は避けられています。この「OFF」こそが、新海誠作品において観客の想像する余白を生むものなのです。

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メジャー向きではなかった新海誠の作家性

 風景、独白、音楽……。すべて感性主体で、そこにロジカルな関係性や因果はありません。だから「映像詩」とも呼びました。しかし新海誠監督の意識としては、それこそが「物語を語るためのツール」です。多くの観客は「キャラクター」に注目し、その変化を求めるものです。「空舞台」も「OFF」も、観客に想像力や読み解きの努力を求めるものですから、新海誠の作家性は決してメジャー向きではなかったはずなのです。

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 しかし、新海誠の「君の名は。」は、興行収入250.3億円(公開終了時)という空前の大ヒットとなりました。その大ヒットに至る道のり、日本のアニメ史における新海誠の位置づけ、それらの作品が「セカイ系」ではない理由、さらに最新作「すずめの戸締まり」については、新刊『日本アニメの革新――歴史の転換点となった変化の構造分析』(角川新書)をご覧ください。