せっかく麓に来たのに曇り空で富士山は見えなかったが、富士山という日本一の山の麓の富士の町は、とにかく工業の町であることがよくわかる。
線路沿いを歩いて富士駅に向かうと、線路の反対側にこれまた大きな工場があるのが見えてくる。王子マテリアの工場だ。富士という町は、日本製紙・王子マテリアという、日本を代表する製紙会社がともに大工場を構える、製紙の町というわけだ。
ほどなく富士駅に着いて橋上駅舎を抜けて北側に出ると、武骨で昭和の香りが濃厚な雑居ビルや商店街が見える。ペデストリアンデッキは現代的であるいっぽうで、脇に見える工場ともども、昭和の工業地帯の駅という一面を富士駅はいまも色濃く残しているといっていい。
この一帯の古い地図には“ほとんど何も描かれていない”
明治時代の頃の地図を見ると、富士駅・新富士駅の周辺にはほとんど何も描かれていない。開業して間もない東海道本線が東西に通っていて、西に富士川が流れ、線路の北には旧東海道の道筋も見える。
ところが、富士駅は影も形もなく、工場群もまったく存在しない。そこには「富士市」ではなく、「加島村」という地名が付されている。
つまり、もともとこの地域は加島村という、特段大きな産業があるわけでもない農村地帯だったというわけだ。
東海道本線の駅は、当初旧東海道の宿場ごとに設けられた。富士市周辺では、東側に吉原宿があり、次は富士川を渡った先の蒲原宿。どちらにも近接地に駅ができた。ただ、何があるわけでもない加島村には、当初駅も与えられなかったのだ。
宿場に挟まれた一帯に起こった“変化”
変化のはじまりは、1908年に操業を開始した富士製紙第八工場である。富士製紙は1888年にもっと北の入山瀬付近に工場を設けて営業を始めていた。その後、事業が発展して複数の工場を持つに至り、加島村にもそれがやってきた形だ。
富士山の裾野にあたるこの地域は、良質な地下水を豊富に得ることができた。紙作りには質の良い水が欠かせない。さらに駿河湾にも面し、東海道本線という大動脈も通り、交通の便に恵まれている。こうした事情から、製紙工場の町として発展してゆくことになるのだ。
工場の建設、駅の開業。町は大きく変わっていき…
そして1909年、富士駅が開業する。東海道本線開通直後から地元では駅の設置を盛んに求めてきたようだが、富士製紙の工場がやってきたことで悲願の駅設置が実現した形だ。