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 工場ができて、駅ができればその後の発展は約束されたようなもの。駅前には市街地も形成され、みるみるうちに一大工業地帯へと成長していった。加島村は駅名にあわせて1929年に富士町となり、戦後の1954年には富士市になった。

 いまでも紙製品の出荷額では四国中央市に次ぐ、全国屈指の“紙の町”。トイレットペーパーに至っては、生産量日本一なのだという。さらに東芝やジヤトコ、旭化成、日清紡などなど、多くの工場があり、東海工業地帯の中核を成している。人口を見ても、静岡県内では浜松市・静岡市に次ぐ第3位だ。

静岡第3の町に新幹線がやってきたのは…

 そうしたわけで、1964年に東海道新幹線が通ると、駅ができるのもとうぜん……と言いたいところだが、残念ながら最初は駅ができなかった。

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 地元の人たちが盛んに新幹線駅の設置を要望し、周辺の自治体にも呼び掛けてようやく1984年になって駅の設置が決まった。新富士駅の開業はそれから4年後、1988年のことである。

 

 最初は駅ができなくて、要望を繰り返しておおよそ20年経って駅を得る……。明治時代の東海道本線のときとまったく同じことが、新幹線でも繰り返されたのだ。この町の人たちは、鉄道に対するなかなかの熱意を持っているようだ。

「新富士」誕生“もうひとつの背景”

 ともあれ、この過程において工業都市であることが大きく影響したことは間違いない。もちろんそれだけではなくて、1913年に開業した富士身延鉄道(現在のJR身延線)の力もあった。

 身延線開業で富士の町と富士宮が結ばれると、身延山参りの参詣客や富士山の登山客が富士駅で乗り換えるようになり、存在感を増している。戦後には、創価学会員が富士宮の大石寺を訪れるようになり、富士駅での身延線への乗り換え客は飛躍的な伸びを見せた。

 1980年前後、身延線は毎日26本もの臨時列車を走らせても押し寄せるお客を捌ききれず、臨時のバスも運行するほど活況を呈していたという。このように、富士の町は“中継地点”としての立場を確立し、単なる工業都市という以上の“箔”をつけたのだ。いまでも、新富士駅に降り立つ富士登山のお客もまだまだ少なくないという。

 

 いずれにしても、そうした富士の町の発展の礎になったのは、富士駅や新富士駅の開業をもたらした工場群である。「のぞみ」に乗っていると、富士山を眺めているうちにあっという間に通過してしまう新富士駅にも、こうした歴史があった。

 そういえば、新幹線の車窓では富士山にばかり気が取られてしまうが、このあたりでは工場の間も駆け抜けている。こんど、新幹線に乗るときは、富士山だけでなく富士の町の工場群にも注目してみることにしよう。

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