競合同士ではない、ゆるやかな連帯
1962年、小池和夫の努力が実り、湖池屋は満を持して「湖池屋ポテトチップス のり塩」を発売した。価格は当時の一般的なスナック菓子よりやや高い150円だったが、高級バーのおつまみに比べればかなり安い。
ところが、売れなかった。多くの日本人がポテトチップスというものに馴染みがなかった上、流通量が少なく、扱っている店もわずかだったからだ。
当時は菓子専業店での流通が全体の9割。残り1割は飲み屋などの業務用だった。客がたまたま店頭で袋を見かけても「何これ、おせんべい?」という反応だったそうだ。
しかしその評判は口コミで少しずつ広まり、ある時から一気に売れ始める。その一助となったのがラジオ宣伝だ。
「うちくらいの会社規模では珍しかったと思います。のちにテレビCMも始めますが、当時お菓子メーカーでやっていたのは明治さんや森永さんといった大手くらい。マスコミを使ったのは早かった。そのあたりは優秀なセールスマンだった親父の才覚ですかね」(小池孝)。のちに湖池屋が「カラムーチョ」「ポリンキー」「ドンタコス」などで印象的なCMを連発する遺伝子は、この時点で既に萌芽を見せていたのかもしれない。
当時、ポテトチップスをお菓子として流通させようと試行錯誤していたのは、湖池屋だけではない。小規模な菓子メーカーが同時多発的にポテトチップス開発を試みていた。「同時期、親父以外にもポテトチップスを作ろうと考えた業者さんはあったでしょうが、皆、苦戦していたと思います」(小池孝)
それを裏付けるのが、埼玉にある1953年創業のポテトチップスメーカー・菊水堂の現社長・岩井菊之(1957-)の寄稿だ。菊之は父親である創業者・岩井清吉にまつわる1960年頃のエピソードとして、菓子問屋主催の慰安旅行のことを書いている。当時、菓子業界は非常に景気が良かった。
「菓子業界ではよく熱海の旅館を会合場所に使っていました。この熱海の旅館で『ジャガイモを薄く切って油で揚げたお菓子のようなものがある』と聞き、当時の品川工場で試作をした」
当時の菓子業界は横のつながりが強く、皆で一丸となって業界を盛り上げていこうという一枚岩の志のもと、かなり和気あいあいとしていたようだ。岩井清吉は群馬県下仁田町生まれ。湖池屋の小池和夫は長野県諏訪市の出身。彼らのように戦後に上京し、1代で事業を起こして奮闘している業者も多かったのだろう。そこに温かな連帯感が生まれ、さまざまな情報交換が行われていた。高度経済成長期真っただ中、生気に溢れていた日本。NHKの『プロジェクトX』や映画『ALWAYS 三丁目の夕日』を彷彿とさせる。
ところで、岩井清吉の出身地・下仁田の名産と言えば下仁田葱だが、当地ではこんにゃくも有名だ。これが菊水堂のポテトチップス開発に役立った。清吉は当初、こんにゃく芋用のスライサーに手板を付けてジャガイモを薄切りカットしていたという。また、清吉はかつて芋ようかんを販売していた経験から、当初は味付けを塩や海苔ではなく「砂糖掛け」を試していた。
ジャパニーズ・ポテトチップスは、本家のポテトチップス製造法を正規ルートで手配・再現したものではない。戦後の零細業者たちが、見様見真似で試行錯誤の末に完成させたものだ。菊水堂は湖池屋に遅れること2年、1964年にポテトチップスの製造・販売を開始している。