コロナ禍もあり、久保野文書を閲覧したのはその2年後で、高知城歴史博物館に寄贈されていた。原典となった史料にはやはり測量日時や測量方法などの記述はなかった。
出張では室津港にも脚を伸ばした。散策中に、室津港が「港の上」と呼ばれる由来が書かれた観光案内板も見つけた。この発見が今回の調査に関わる重大なキーワードとなることを知ったのは、高知県から戻った後のことだった。
橋本学教授「信ぴょう性は根底から覆る」
橋本氏に久保野文書の写しを見せると、工事に要した労働者数の記録に目を向けた。工事内容は不明だが毎年数千人規模の労働者が動員されていた。橋本氏は「70~80%の根拠は地震による室津港の隆起データ。もし宝永地震(1707年)後に港が人工的に掘り下げられていたら、信ぴょう性は根底から覆る」と強調した。
久保野文書には「掘った」との明確な記述はなかった。だが土佐藩の参勤交代にも使われた重要な港だ。船が入らないほどの隆起を放置するだろうか。そんな時「港の上」を思い出した。案内板には「地震が起こると室津港の一帯が隆起し、水深が浅くなり港が使えなくなります。この地域ではそのたびに港を掘り下げ、水面と住宅地に大きな高低差ができました」とあった。やはり港は宝永地震後に掘り下げているはずだ。
案内板の作成元に聞くと、室戸の郷土史家である多田運(めぐる)さんを紹介してくれた。電話で尋ねると多田さんは「掘ったに決まっとる」と断定的に言った。当時の室津港の工事と言えば浚渫(しゅんせつ)工事や掘り下げ工事が中心だったという。
宝永地震直後、約4キロ離れた津呂港では掘り下げをした記録も残っている。「津呂で掘ったということは同じくらい隆起する室津も当然掘っている。やらんかったら港が機能せんがやき」。土佐弁の口調は確信に満ちていた。
誤差の大きい記録というだけではない。隆起の記録ですらない可能性が高まった。使ってはいけないデータが、あたかも確実なデータのように扱われ、国の重大な指標となっていたのか。私の中で70~80%が根拠のない数字だと確信した瞬間だった。