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 こうして山下は比島防衛の大任を負って、日本本土から飛び立った。しかし、それはあまりに遅すぎていた。着任が10月6日、それから1週間もたたないうちに、米機動部隊は比島の日本軍陣地に大空襲をかけてきた。決戦準備よりさきに戦闘がはじまったのである。しかも当初計画されていたルソン島に兵力を集中しての一大決戦は、台湾沖航空戦で大戦果をあげたという大本営のとんでもない誤判断から、兵力分散のレイテ島決戦に変更された。山下はこの愚策に猛烈に反対したが、大本営も上級司令部の南方軍も、頑として耳を藉(か)そうとはしなかった。

レイテ戦で出撃する戦艦武蔵。あえなく沈没した

 山下は天を仰いで言った。

「レイテ決戦は後世史家の非難を浴びることになろう」

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「一人でも多くの部下を無事に日本へ帰したい」

 はじめから無謀愚策の一語につきたレイテ決戦に敗れ、兵力の大損耗(そんもう)をまねき、昭和20年2月からは超優勢な米軍のルソン島上陸を迎え、山下軍は北部山中に籠城しゲリラ的抵抗をつづける持久戦に入った。寡兵による広大なる守備範囲、食糧と弾薬もままならず、補給なしとあっては、放胆な攻勢作戦のとりようもなかった。しかし第十四方面軍の将兵はねばれる限りねばり抜いて抵抗した。

 8月14日夜、ポツダム宣言受諾を知った山下司令部では、参謀たちが、虜囚の辱(はずかしめ)をうけず、また敗戦の責任を負って軍司令官は自決すべきかどうかで、議が闘わされた。

現在のレイテ島と海

 しかし山下は淡々として言った。

「私はルソンで敵味方や民衆を問わず多くの人びとを殺している。この罪の償いをしなくてはならんだろう。祖国へ帰ることなど夢にも思ってはいないが、私がひとり先にいっては、責任をとるものがなくて残ったものに迷惑をかける。だから私は生きて責任を背負うつもりである。そして一人でも多くの部下を無事に日本へ帰したい。そして祖国再建のために大いに働いてもらいたい」