かつてないほど怒りを示した天皇

 それは昭和11年の、いわゆる二・二六事件における天皇の、山下にたいして放たれたという強い叱責の言葉であった。皇道派の一員として、叛乱将校に一掬(いっきく)の同情をもっていた山下は、2月28日に川島義之(かわしま・よしゆき)陸相とともに宮中に侍従武官長本庄繁(ほんじょう・しげる)大将を訪ねた。かれは青年将校の苦衷を語り、かれらが罪を謝するために切腹する覚悟でいることを、武官長に語った。ついては、かれらを安んじて自刃させるためには特別の慈悲をもって「勅使を賜り死出の光栄を与えてもらえまいか」と涙ながらに申し出たのである。

二・二六事件の叛乱軍。軍人会館前で

 しかし侍従武官長から奏上をうけた天皇は、かつてない怒りを示していった。

「たとえいかなる理由があろうと叛軍は叛軍である。自殺するならば勝手にさせるがいい。かくのごときものに勅使などもってのほかのことである」

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 そして天皇は語をついで言ったという。

「そのようなことで軍の威信が保てるか。山下は軽率である」

 あからさまに臣下を名指しで戒(いまし)めることをしない天皇が、はたして「山下は軽率である」と言ったかどうかについては確証はない。ただし「軽率」の一語が天皇の言葉として山下の耳に入ったことは確かであった。

あまりにも遅すぎたフィリピン着任

 あのときから、すでに8年半もの暦日がすぎている。にもかかわらず、山下の名のあるところにまだ雪の日の惨劇が大きく立ちはだかるのか、という絶望の想いが、かれの胸中を埋めるのである。

 その山下が、参謀総長梅津美治郎(うめづ・よしじろう)の計らいで、天皇と皇后に拝謁することができたのは、出発が延ばされた10月1日のことであった。襟を正した山下が、やや上気した面持ちで退出してきたとき、控えていた副官にはその表情が「もうこれで、いつ死んでも心残りはない」といっているように感じられたという。事実、皇居を辞するとき、侍従長に「私の生涯においてもっとも幸福なときでありました」としみじみと語っている。忠誠なる軍人として山下はひそかに天皇に別れを告げた。