どうして「白河の関」が“東北の入口”として知られるようになった?
白河の町のルーツは、江戸時代には松平定信ら幕閣の重鎮も輩出してきた譜代の名門・白河藩の城下町。白河よりも北、奥州に控える仙台藩伊達氏や盛岡藩南部氏といった外様雄藩に対する備えという役割もあったのだろう。
さらにさかのぼって奈良時代から平安時代には、例の白河の関が置かれていた。白河関は、鼠ヶ関・勿来関とあわせて奥州三関と呼ばれ、白河関から北が東北、という重要な位置づけだった。もともと東北地方が朝廷の支配下に収まったのは他の地域よりも遅く、敵対する蝦夷勢へ対抗する最前線という役割もあったようだ。
平安時代に入ると前線基地としての役割が低下し、実質的に関所の機能も失われていった。それでも、歌枕(和歌の名所)になるなど、東北の入口を意味する概念として、白河の関の存在は残り続けた。
令和のいまも、深紅の優勝旗が越えたと話題になるのは、まさにそうした概念が引き継がれているからだ。白河という町は、歴史的にも“東北の入口”を担ってきた町なのである。
工場輸送の「信号場」だったかつての「新白河」
ただし、新白河駅が白河市の玄関口になったのは、新幹線がやってきてからのことだ。それ以前の白河の町の玄関口は在来線の白河駅。白河駅の北には白河藩の小峰城、南側には城下町に発する市街地が広がり、構内には機関区も置かれていた要衝の地。近代以降も、白河は東北の入口として重要な存在だった。
その頃の新白河駅はというと、新幹線が開業するまでは磐城西郷駅と名乗っていた。白河というよりは、西郷村の玄関口としての意味合いが強かったのだ。
磐城西郷駅が開業したのは1959年のことだ。それ以前、1944年には信号場が設けられ、郡山から疎開してきた軍需工場・保土谷化学への引き込み線が分かれていた。
その工場は終戦とともに一旦廃止されるが、1950年にはその跡地が白河製紙(白河パルプを経て三菱製紙白河工場)として再開、引き込み線も引き続き利用された。つまり、磐城西郷駅は工場への輸送を目的として生まれた信号場からはじまったというわけだ。