それが1959年になって正式に駅に昇格する。赤字ローカル線だった白棚線のバス転換を受け入れる条件のひとつが、磐城西郷の信号場から駅への昇格だったという。
その後も引き込み線を使ったパルプや紙製品の輸送は続き、1960年代半ばには貨物収入で高崎鉄道管理局内トップになっている。そして、この駅の存在によって、西郷村方面の開発も促されることになる。新白河駅に改称したのは、新幹線が開業した1982年のことだ。
西側に向かうとなんだか唐突な「売場」が見えてきた
と、ならば、西郷村方面、つまり新白河駅の西側も歩かねばなるまい。
西口は、「高原出口」と名付けられ、西郷村をずっと西に辿っていった先にある甲子高原の玄関口という役割を持つ。駅前には「村の駅」をアピールする観光看板が掲げられ、その傍らにはバス乗り場と観光案内所。
西に延びる目抜き通りは、白河市街に通じる東側よりもいくぶん小ぶりだ。駅の周りにラーメン店が目立つのは、東口も高原出口も変わらない。
駅前広場から線路沿いの南を見ると、ウインズ新白河、つまりJRAの場外馬券売場のゲートがあった。訪れたのが平日だったから、特に人の出入りもないし、ゲートも閉ざされていた。ただ、この東北の入口の駅前に場外馬券場とは、やや唐突な印象も否めない。どういうことなのだろうか。
実は、白河市や西郷村の一帯は、馬との縁が深い地域だ。江戸時代、代々の白河藩主によって馬の生産が奨励され、江戸時代末期には西郷村には365軒の家があり、馬の数は1000頭以上。人よりも馬が多いという、典型的な“馬産地”だったのである。
近代以降も西郷村内に軍馬補充部と種馬場が置かれ、軍馬の生産・育成が行われていた。毎年秋冬の馬市では白河の市街地も賑わいを見せ、白河駅の特設ホームから馬が全国各地へと運ばれていったという。そうした馬との関わりの深い歴史が、駅前の場外馬券場に繋がっているのだろう。
なお、いまの西郷村は軍馬補充部や種馬場の一帯が家畜改良センターなどに変わっており、馬産地としての面影はほとんど消えている。