ASIが創発されたとして、そもそもそれを認識できるかどうかも怪しいのであるが、では、我々はASIを制御したり、機能を停めたりすることはできないのだろうか? 実はそうでもないのである。アリの群れが創発する行列自体への邪魔は難しい。行列の上に石を置いたとしても、すぐに石を回避しつつ最適な行列が創発する。創発されるシステムや現象には高いロバスト性(様々な外部の影響によって影響されにくい性質)やレジリエント性があるのだ。
しかし、行列を創発する個々のアリに対して、例えば、別の餌を置いたらどうなるか? 当然その餌にアリが群がることになり、それまでの行列は乱されて消えてしまう。創発された側ではなく、創発する側に対して介入すればよいのである。つまりは我々が構築する、我々が制御可能なAIに対してその挙動を変化させるような処理を施すことで、それらが創発するASIの挙動に対しての何らかの影響を及ぼせる可能性があるのだ。
ただし、ASIの創発については、そもそもそれを創発するAIが超多数必要であることと、単に集合すれば創発が起きるわけではないことに留意が必要だ。アリにせよ、細胞にせよ、人にせよ、お互いが連携するための共通したルールが必要であることから、単にあちこちで小粒AIが開発されているからといって、それらが連携してASIが創発されるなどということは万に一つもない。
「個」を見るか「集合体」を見るか
ところで、なぜsakana.aiは、わざわざ日本で起業したのか? そもそもなぜ「sakana=魚」なのだろうか?
それは、巨大なAIを「群知能」として構築することを目的としているからである。
ある要素の群れから、集合体としての要素が生まれる現象のことを「創発現象」と呼ぶことはすでに述べた。そして、アリと列の関係や、魚と群れ、脳神経細胞と脳という塊の関係において、あくまで個々の要素しか見ないモノの見方と、個々の集合体として創発される一つの塊を一つのモノとして見る見方とのどちらのほうが強い傾向があるかが、実は東洋と西洋では大きく異なるのだ。しかも、グローバル化した現在においてもその傾向は変わらない。
ここで、リチャード・E・ニスベットの『木を見る西洋人 森を見る東洋人』という書籍を紹介しよう。その中に興味深い図が描かれている。ヒマワリのイラストがそれぞれ四つ描かれた二つのグループがある。左側のグループに描かれたヒマワリは、四つのうち三つのヒマワリの花びらが丸形で大きく、一つのみが三角形のような形で小さい。茎は四つ全部が曲がっている。葉は四つのうち三つにそれぞれ一つずつ付いている。一方、右側のグループは、三つのヒマワリの花びらは小さめの三角形で、一つのみが大きい丸型になっている。茎は四つ全部がまっすぐで、葉は一つの花にのみ付いている。