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お高くとまっていては、文化は廃れていってしまう

――競技者引退後、フィギュアスケートの解説者としてもご活躍されています。またご自身のウェブサイトには、振付をした作品の「セルフライナーノーツ」を掲載されていますね。

町田 音楽と身体のみで、何も語らずして伝えるのが競技者やダンサーの力量――と言われたらそれまでなのですが、じゃあフィギュアをまだ見たことがないという人に、初めからそのパフォーマンスを「見て、感じろ」と言っても、実際のところ、かなり難易度が高いですよね。これからの時代、そうやってお高くとまって鑑賞者教育を怠っていては、文化というものは廃れていってしまうのではないかと思ったのも、言語活動に力を入れるようになったきっかけの一つです。

©文藝春秋 撮影/石川啓次

 自分は何を訴えたくて、その芸術作品を作っているのか。それをどう鑑賞してもらいたいのか。そして、長い芸術史、あるいはフィギュアスケート史の中で、それはどういう意義があることなのか。こうしたことは、やはりきちんと言語化しなければ伝わらない。

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――人間の「行動」は比較的言語化が容易に思えるのですが、町田さんが様々なお仕事を通じて取り組まれている「身体の言語化」は、それに比べると遥かに難しいという実感があります。これは一例ですが、身体の不調を覚えて病院に行った際に、医者に「不調を感じる箇所」や「どのように不調なのか」を具体的に伝えるのに難儀した経験は、多かれ少なかれ誰しもあるのではないでしょうか。

町田 今のお話における「身体の言語化」は、いわば、自分の身体をどこまで細かく認識できるか、ということと同義ですね。例えば、「背中が痛い」と一口に言っても、背中も広いので、その中のどこが痛いのかを明確にしなければ相手には伝わりません。また、物理的に「この辺です」と指すことができたとしても、その示した箇所のどのへんが痛いのかまでは説明できていません。背中には、まず皮膚があり、その下には骨や筋肉といったさまざまなものが詰まっている。痛みの原因が外傷なのか、骨格レベルでの不具合なのか、筋繊維に何か問題があるのか――といったことまで考えに入れなければならず、一筋縄ではいきません。