世の新刊書評欄では取り上げられない、5年前・10年前の傑作、あるいはスルーされてしまった傑作から、徹夜必至の面白本を、熱くお勧めします。
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かつて、「薩摩」という中央から半ば独立した形で自治を行っていた国が存在した。司馬遼太郎『翔ぶが如く』は、そこから輩出した人々の群像を描く大河小説である。
主人公は西郷隆盛だが、彼が歴史にその名を刻んだ最大の業績である、徳川幕府打倒がすでに終了した段階から物語は始まる。冒頭に登場するのは薩摩人の川路利良である。後に日本の警察制度を創り上げる彼が訪欧の途から戻ったとき、明治政府は創立以来最初の危機を迎えつつあった。
徳川幕府打倒で最も功績を残し、かつ軍において最大の勢力であった薩摩勢がなぜ主流から外れていったか。政府の中枢にいて近代国家建設を推進する大久保利通と、陸軍の統率者でありながら半ば引退した立場になっている西郷を対比して描きながら、作者は政治の不思議を描いていく。
明治6年の政変によって西郷がすべての職を辞し、帰薩するのが物語前半の山場である。川路や、西郷の腹心である桐野利秋などの薩人がどのように行動したか、伊藤博文や江藤新平といった非薩人は西郷をどう見て、いかに呼応したか。個々の動きが1つの大きな流れを形成していく。その生命感こそが本書の最大の魅力である。全章が小説にとっては不可欠の器官なのだ。
「書きおえて」に「明治後の西郷は、陰画的であった」とあるように、全篇を通じて西郷隆盛は物語の背後で静止している。周囲が動くために、反映として彼の存在が浮かび上がるのである。
昭和に引き起こされた愚かな戦争の遠因がどこにあったかを、全10巻の中で作者はたびたび示唆している。物語の背後に屹立する西郷の像は、この国が放棄した選択肢の、墓標でもあるだろう。(恋)