藤田嗣治 パリで歌っていた都都逸

福田 満 元三菱商事パリ駐在員
エンタメ 昭和史 アート

芸術の都パリで早くから成功を収めた世界的な画家、藤田嗣治(ふじたつぐはる)(1886―1968)。第二次世界大戦中に戦争画を描いたことから、戦後“戦犯”と批判され、日本画壇に厳しい言葉を残して渡仏した。その後、フランスへ帰化したことから、「藤田は日本人であることを捨てた」とも言われた。しかし、戦後パリで親交のあった元三菱商事パリ駐在員の福田満(ふくだみつる)氏が目にしたのは、祖国を愛する一人の日本人の姿だった。

 モンパルナスにある藤田先生のアパルトマンを初めて訪ねたのは、私が23歳になる1954(昭和29)年のことでした。先生は当時、60代後半。5番目の妻の君代夫人と2人で暮らしていました。

 私に先生を紹介してくれたのは、パリで柔道を教えていた石黒敬七さんです。石黒さんは1920年代のパリで初めて柔道場を開いた人。慶應大学の柔道部でキャプテンをしていた私は、東京学生柔道連盟の第一回派遣で柔道を教えることになり、渡仏の際に彼のもとへ挨拶に行ったんです。

 すると、「向こうに行ったら画家の藤田さんに会いに行きなさい」と、近くに置いてあった大きなコケシ人形の背中に「福田君をよろしく 敬七」と書いてくれて、それを持たされました。

藤田嗣治

 藤田先生は高等師範附属中学の出身で、当時の同校の校長はあの嘉納治五郎です。本人も柔道をしていたので、石黒さんとは懇意の仲でした。なので、そのコケシを見て相好を崩した先生は、すぐに私を歓迎してくれました。その日、モンパルナスにあるパリの名士が集うカフェ「ラ・クーポール」に連れて行ってもらったのですが、先生を一目見た周囲の人たちが道をサーッと開け、「メートル(先生)、メートル」と次々に挨拶をするのには驚きましたね。

 あの頃の私は柔道しか知らない新潟出身の田舎者でしたが、先生はそんな私にも本当に優しい人でした。ひと月に2度か3度、「今日は空いているかい?」と電話がかかってくる。あるときは「市場にウナギを買いに行こう」と言われ、先生自らが捌(さば)いて調理したうな丼をご馳走になったこともあります。

「君は田舎生まれだからなあァ。僕は江戸っ子だよ」

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source : 文藝春秋 2017年4月号

genre : エンタメ 昭和史 アート