川島芳子 スズランは自分の性格に似ていると言った姉

愛新覚羅 憲東 川島芳子の弟
ニュース 社会 中国 昭和史

川島芳子(かわしまよしこ)(1906―1948)は清朝の王族粛親王の十四女として北京で生まれる。本名は愛新覚羅顯㺭(あいしんかくらけんし)。川島浪速(なにわ)の養女となり日本で教育を受ける。満蒙独立を策していた浪速にしたがって中国に渡り、男装して日本軍のために情報収集をおこない、「東洋のマタ・ハリ」の異名をとる。また天性の美貌から「男装の麗人」ともてはやされ、日本軍の高級将校らとの恋愛ざたも多かった。戦後、中国国民政府軍に捕らえられ、「漢奸」として死刑に処せられる。憲東(けんとう)氏は弟。

 姉が川島浪速氏の養女になったのは、父の粛親王善耆(ぜんき)が警察制度の改革などをするために、顧問として清朝から「客卿二品」という位をあたえられていた川島氏を起用し、それで親しくなったためです。川島氏はのちに、「私が北京で清朝政府の顧問をしていたとき、粛親王と義兄弟の誓いをたてたことがある」と言っていました。そんなに簡単に王族と外国人が義兄弟になれるわけがない、という人もいますが、それほど二人は親しかったということなのでしょう。

川島芳子

 姉が川島氏の養女となって日本に渡ったのは、大正3(1914)年ごろです。私はちょうどそのころに生まれたので、姉と一緒に中国で生活したことはありません。私が初めて姉と会ったのは、大正11年に父の粛親王が旅順で死に、その葬儀に川島氏が姉を連れてきたときです。このとき、川島氏は私にも日本で教育を受けさせたほうがいいと勧め、私は日本に留学することになったのです。

 日本に行く途中、私たちは天津の日本式旅館に泊まりましたが、そのとき、姉は私に亡くなった宣統帝の皇后の弟の家から三輪車を借りてきてくれました。私は旅館の廊下でそれを乗り回して遊びましたが、女中さんが掃除をするために水を一杯入れておいていたバケツにぶつかり、そこらじゅうを水びたしにして姉に怒られたのをおぼえています。

 川島氏の家は長野県松本市の浅間温泉にありました。畑の中にある南向きの家でした。川島氏は奥さんと別居しており、そこにはお妾さんが同居していました。8畳、6畳、4畳半、3畳、台所といった間取りだったと思いますが、私に続いて兄の憲開(けんかい)や甥も留学にきたので、オンドルのついた部屋を建て増ししました。

 川島氏は私たちに労働観念を植えつけるつもりか、家のそばに畑を借りて、野菜などを栽培させました。姉と一緒に、姉の好きだったコスモスの花を庭に植えたこともあります。また、私が山からスズランを採ってくると、姉は、この花は自分の性格のような花なので好きだ、と言いました。

姉は恋を語っていたのだろう

 川島家から100メートルほどのところに「つたの屋」という旅館がありました。ここに歩兵五十連隊に勤務していた山家少尉という若い将校が下宿していました。ある日、私は姉がこの山家少尉と話をしているのを見かけました。そのときは何を話しているかわかりませんでしたが、あとになってそのときの様子を思い返してみると、恋を語っていたのだとわかりました。

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source : 文藝春秋 1989年9月号

genre : ニュース 社会 中国 昭和史