文学とはなにか、という問いに対する明確な答えは自分は持ってなく、それに対しては非常に申し訳なく思っているのだが、なんとなく思うのはそれが個人のもの、個人の思いを綴って、だけどみんなそれぞれに個人だから結果的に万人に届くもの、と言うことで、だけど、実はそれが一番難しい。なんとなれば人間には虚栄心が羞恥心があって、それを其の儘に書くのは不可能だからである。だから西村賢太氏の小説を読んだときはびっくりした。その難しいことを楽しんでやっているように読めたからである。それを可能にしているのは書くより先に読むことから始めた西村賢太氏の正確無比な言葉遣いと豊かな語彙、と自分は思っていた。

それだからついに名作「苦役列車」で144回芥川賞を受けた、と聞いたときは秘かにこれを喜んでいた。そうしたら、どういう風にしてそれが伝わったのか、「新潮」で氏と対談することになって、新潮社クラブ、という旅館のような処で対面した。この時、なにを話したかは殆ど忘却しているのだが、彼が現今の文学状況に対して、慊(あきたりな)い、思いを抱いていることだけは強く伝わってきて、それに対して、「そりゃそうだよ」みたいなことを言ったように記憶している。又、緊張をほぐす為、と断って、対談前に持参したカップ酒を二合、息もつかず、薬を飲むように飲み干したのも記憶している。
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source : 文藝春秋 2025年9月号

