その日、イベントが終わると、私たちは本郷3丁目交番の裏手にある、機山館という小さなホテルに向かった。主役の西村賢太さんを囲み、一席設けるのである。関係者だけの小さな会だった。
準備も含めると、西村さんとはかなりの時間一緒にいたのに、あらためて面と向かうと、久しぶりに再会した知人のような照れ臭さがあった。そんな気分をことさらかき立てたのが、西村さんが最初に発した――それ自体としては全くどうということのない――一言だった。
「先生はそれで、ご家族は?」
少々意外だったが、私が答えると「ああ、ちゃんといるんですね」と聴衆へのサービスに専心していた今までのトーンとは違う、やさしい声で言う。「僕は独り身だからいつ死んでも」といった言を思い出した。考えてみれば西村さんの作品は家族へのこだわりがとても強い。家族の不在を描く、疑似家族小説なのだ。そして「瓦礫の死角」のような作品が、そこに新しい展開を生むはずだった……。
この日のイベントは「もっと文学を読もう」との趣旨で企画されたもので、作家が大学を訪れて講義を行い、学生と熱く討議するという。しかし、西村賢太が講義? 少々違和感があった。「鶯谷の大冒険」ならわかるが、ゼミ室で討議する西村さんのイメージがわかない。
そして当日。案の定だった。タクシーでやや遅れてキャンパスに到着した西村さんは「いやね、金がいいっていうから」と涼しい顔で、「講義? え、そうなんすか? 準備がないんすけどね」と言う。「どうしますかねえ」みたいなことになり、結局、私が適当に質問を入れながら話を誘導することになった。大慌てで質問メモをつくった。
しかし、そこからはさすがだった。どんな質問をしても西村さんは間髪入れずに答えを返す。聴衆の期待にも敏感で、笑いをとりつつ、ご自身の小説遍歴、田中英光への思い、私生活、執筆、体調のことなど次々と話題は展開した。(参考:https://www.youtube.com/watch?v=0adtabjvx-A)
西村さんは声がいい。これは得だ。でも、偶然ではない。彼の小説も、声がいい。田中英光の作品の魅力は何? といった話では西村さんは口ごもった。そこがかえって信頼できた。「そんなの、説明できないよ」というのだ。大事なのはそこじゃない。
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source : 文藝春秋 2022年4月号