なぜ戦争をもっと早く終わらせられなかったのか? 日米戦争開戦時の終戦構想から外交交渉、ガバナンスまでを徹底討議した
保阪 今年は太平洋戦争の終結から80年という、節目の年になります。1941年12月8日、真珠湾攻撃で始まった戦争は、1945年8月15日、昭和天皇が国民に終戦を告げることで終わりました。
戦争期間は3年8カ月。開戦から2年7カ月後の1944年7月にサイパンが陥落して敗北は決定的となりました。しかし敗色が濃厚になった後も戦争終結を迎えるまでには大本営や政府内部で紆余曲折の議論が行われ、その間、連合国の攻撃によって、数多くの血が流れました。1945年(最後の7カ月半)に限っても、東京大空襲で約10万人、沖縄戦では約20万人、広島・長崎への原爆投下で約21万人(同年12月末まで)もの犠牲者が出ています。
8月15日未明には、ポツダム宣言受諾に反対する陸軍の若手将校や近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデターまであった。半藤一利さんが『日本のいちばん長い日』(文春文庫)で描いた、この「宮城(きゅうじょう)事件」は未遂に終わりましたが、当時の軍部が実権を握れば、戦争は終わらず本土決戦の可能性もありました。

麻田 戦争末期の8月9日には、ソ連が対日参戦しました。9月初めまで続いた、この日ソ戦争での日本軍の戦死者は3万人以上。さらに捕虜となった日本の軍人・軍属のうち60万人近くがシベリアや中央アジア、モンゴルなどの収容所に抑留され、強制労働を課されました。戦争が長引いたことで、このような悲劇が生まれました。
新浪 私の父は海軍にいて、戦争末期には特攻隊に配属になったのですが、出陣前に終戦を迎え、生き残りました。その父から聞いた話では、1942年6月のミッドウェー海戦で大敗北を喫したことは、海軍では誰もが知っていて、その頃には将校たちも、「命令には従うしかないけれど、アメリカとの戦いには勝てないだろう」と悲観的に語っていたそうです。ミッドウェーで敗れてから3年以上も戦ったのはなぜだったのか? 連戦連敗のなかで戦争を終わらせる決断をできなかったのはなぜか? 不確実性の増す世の中で、様々な決断を下していくことが求められる企業経営者として非常に関心があります。
もっと早く講和できなかったのか
楠木 真珠湾攻撃で成功を収めた日本軍は、年が明けた1942年1月にはマニラ、2月にはシンガポールを占領するなど、快進撃を続けました。しかし開戦から6カ月後にミッドウェー海戦で敗北し、日本軍はすでに劣勢に立たされていた。にもかかわらず、なぜ戦争はその後も長期にわたって続いたのか。現代でもビッグプロジェクトは、いちど始めてしまうと失敗が見えてきても、なかなかやめにくいものですが、80年前に日本の指導者層は何を考えていたのか、知りたいところです。
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