中央本線の硬いシート

林 真理子 作家
ライフ 昭和史 ライフスタイル 歴史

 山梨に生まれ育った私にとって、駅といえばやはり新宿である。

 今なら特急で1時間半で行ける距離であるが、昭和30年代は各駅停車に乗るのが普通であった。よって2時間半はかかったと記憶している。

 よって子どもたちにとって、「新宿に行く」というのは、大冒険であり、友だちに自慢出来る大変なイベントなのだ。

林真理子氏 Ⓒ文藝春秋

 新宿に出かけるのはたいがいは朝であるが、夜に到着したことがある。大学生だった従姉の下宿に向かったのだ。空中でキラキラ光る車がまわっていたことをはっきりと憶えている。まるで未来都市のようであった。そしてたくさんのネオンが、ここは特別な場所であることを誇示していた。

 従姉の下宿のまわりには都電が走っていた。傷病兵がアコーディオンをひいていて、そのありさまにショックを受けて泣いたことも。弟と一緒に東京久保講堂へ「鉄腕アトム大会」を見に行き、皆で「鉄腕アトム」のテーマ曲を歌った。しかし田舎の子どもにとっては、東京はあまりにもきらびやかすぎて、目的を果たすとすぐに帰ってくるところであった。とぎれとぎれの記憶しかないのだ。

1964年の新宿駅東口 Ⓒ時事通信社

 それよりもはっきりと甦ってくるのは、中央本線の硬いシートでのさまざまな思い出である。大月、上野原、四方津、初狩、塩山……、口にするだにものがなしい名前の駅。昔の鈍行はそういう駅に長く停車した。暗いホームを眺めながら、これからまたいつもの生活が始まるのだなと、ぼんやりと考えていた私。

 あれは小学校5年生の時である。とても熱心な先生がいて、合奏のグループが編成された。私はハーモニカ担当である。この先生は「椿姫」の前奏曲をとてもうまく編曲して、なかなか素晴らしい合奏曲をつくった。そしてTBSこどもコンクール、NHKコンクールなどで山梨県代表となるのである。あれは東京の決勝に出た帰りであった。入賞することもなく、敗退して皆で夜行に乗った。子どもが20人ぐらい、親も同じぐらいいた。

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source : 文藝春秋 2025年9月号

genre : ライフ 昭和史 ライフスタイル 歴史