みんな、勘違いしていないだろうか? 歯医者は虫歯を治すだけじゃない!
現実は14本しか残っていない
厚労省や日本歯科医師会が進める「8020運動」は、「28本の永久歯のうち、80歳になっても20本残しましょう」というキャンペーン。半分の14本しか残っていない人が多いのが、現実だからだ。
これに異を唱える歯科医がいる。山形県酒田市で日吉歯科診療所を営む熊谷崇理事長だ。「歯は、一度削ったり抜いたりすれば元に戻らない。28本の歯を、死ぬまで健康な状態で保つことは可能だ」という考えのもと、「KEEP28」をスローガンに掲げてきた。
日吉歯科では、55歳以上になってから通い始めた人が失った歯は、過去30年の平均で1.8本にすぎない。初診年齢が若ければ、その平均は1本未満に下がるという。
熊谷理事長に取材を申し込むと、こんな返事が来た。
「インタビューだけでは伝わらないことも多いため、実際の診療を受けて頂きたいと思います」
熊谷崇理事長
そこで8月中旬、酒田市内の寺町の一角にある日吉歯科診療所に向かった。午前9時、受付で保険証を出し、問診票を記入。待合室で血圧を測ってから、診療内容を紹介する20分ほどのビデオを見る。
その後、歯科衛生士に案内されたのは、診療室。増設を繰り返して27に増えた診療室はすべて完全個室で、歯科医だけでなく歯科衛生士も各自の個室を持っている。その目的は、患者のプライバシー保護と滅菌した器具の維持にあるという。
日吉歯科のスタッフは、歯科医師9人、歯科衛生士18人、歯科助手4人、歯科技工士4人、受付4人、事務長1人。町の歯医者のイメージとは、だいぶ違う規模だ。
レントゲンを16枚も
担当衛生士は、梅澤幸太さん。日吉歯科に勤めて4年目で、来年からは東北大で研究を続ける予定だ。
初診の患者は、まず口腔内写真とレントゲンを撮る。他の歯科医院と違うのは、さまざまな角度から写真を12枚、レントゲンを16枚も撮ることだ。撮影には、レンズの周りにリング状のストロボがついていて、口内の手前から奥まで全体にピントが合う歯科専用のカメラを使う。
次に唾液の検査。唾液には口の中の菌を殺す作用があるが、量と性質に個人差があるからだ。量は採取したその場でわかるが、性質を見るには培養に4日かかる(お盆が近かったため、この日は省略)。
口の中を見た梅澤さんから、
「歯磨きが上手ですね。プラークコントロールはよくできています。歯茎の状態もいいです」
と褒められる。ちょっと嬉しい。
その後、歯垢を削り取って顕微鏡で見せてくれた。画面いっぱいに、小さい菌や細長い菌が元気よく動いている。口の中には数百種類の菌がいるそうで、ほとんどは無害だが、
「この丸いのは虫歯菌で、こっちのミミズみたいなのは歯周病菌です」
たちまちがっかりする。
その後、診察。検査結果を見た熊谷理事長は、
「58歳の日本人男性としては、だいたい平均ですね」
写真とレントゲンを見ながら詳しい説明を聞くと、治療歴のない歯ほど状態がよく、治療した歯は内部や周囲に問題が生じていると分かった。詰め物をした歯が割れたり、被せ物に隙間ができたりするためだ。
最後に梅澤さんにクリーニングをしてもらい、ブラッシングの指導を受けて、初診は終了。会計は保険診療だけで、4,640円だった。
通常はこのあと何度か来院し、衛生士のクリーニングで口の中を清潔にする。少ない人でも3回。虫歯や歯周病がひどい人だと6回ほど通院してから、ようやく治療が始まるという。菌がたくさんいる状態のまま治療しても、再発リスクが高いからだ。もちろん、痛みを訴える患者には、初診から応急処置が施される。
治療がすべて終わると、初診と同じ検査を行なう。患者には、自分の口の中が清潔になったことと、清潔に保つ必要性が実感できるわけだ。
「口の中を清潔に保てば、虫歯や歯周病で歯を失わずにすみます。逆に、どんなに上手に詰めたり被せて治療しても、ケアを怠れば必ず再発してしまう。歯の喪失は、健康寿命を短くするんです」
インフルの罹患率に大きな差
だから熊谷理事長が力説するのは、患者本人によるホームケアと、定期的に来院して歯科衛生士によるメンテナンスを受ける重要性だ。
カルテの保存義務は5年だが、日吉歯科では開業以来約40年の患者3万人の診療記録をすべて残している。問題が生じたときしか来院しない人に比べると、メンテナンスを怠らない人ほど歯を失わずにいる事実が、その蓄積から一目瞭然だ。冒頭のデータで触れたように、日吉歯科に通い続けている人は、ほとんど歯を失っていない。
1回1時間ほどかかるメンテナンスは、患者の状態に合わせて3カ月おきだったり、半年や年に1度の人もいる。費用は1万円+税。日本の保険制度は「予防」には適用されないから、全額が自己負担だ。
日吉歯科の試算によると、メンテナンスをまったくしない人が生まれてから80歳までに歯科で使う医療費は、435万円。自己負担は、3割として131万円。一方、メンテナンスを続けた人は、全額自己負担で149万円だ。
金額を単純に比べれば、問題が生じたときだけ通院するほうが出費は少なく済む。しかし口腔ケアを怠ったせいで生じる医療費を合わせれば、80歳まで自分の歯を持ち続けるほうが安上がりなことは間違いない。膨らみ続ける国の医療費の削減という視点を加えれば、どちらが正解か考えるまでもない。
熊谷理事長はひとつの例として、患者のインフルエンザ罹患率を調べた結果を見せてくれた。厚労省によれば、2018/19シーズンの国内の患者数は推定1,200万人。罹患率は約10%だが、
「当院にきちんとメンテナンスに通っていながらインフルエンザにかかった人は、約3%です。過去5年間遡っても、やはり3%でした。
口腔ケアが身体全体の健康に好影響を及ぼし、医療費の抑制にも繋がっていることがわかります。健康寿命を延ばし、医療費を抑制し、納税期間を延長する。社会の在り方を健康にするために予防歯科の大切さを訴えることが、私の使命です」
熊谷理事長が行なってきたのは、患者の意識を「治療から予防へ」変えることだ。しかし当初は、歯石を取れば「スースーして染みるじゃないか」と文句を言われ、「儲けるために何度も呼びつけるのではないか」と誤解を受けることも多かった。地域の人たちの理解を得るまで、実に20年かかったという。
いまでは酒田市の人口10万人の1割が日吉歯科に通い、予防の重要性も浸透した。たとえば、三元豚で有名な(株)平田牧場は酒田を代表する企業だが、従業員ばかりか、その子どものメンテナンス代まで会社が負担しているという。そのほうが医療費を抑制できるし、従業員の健康は業績に直結すると考えているからだ。
この日メンテナンスに訪れていた70歳の女性に、待合室で話を聞いた。お口を見ると、見事にきれいな歯が並んでいる。日吉歯科には、35年間通っているという。
「年に何回か来れば、磨いてもらえますからね。簡単に神経を取ったりしないで、自分の歯を大事にしてくれるからありがたい。もう親子3代で通っていて、大学生と高校生の孫には虫歯が1本もないですよ」
子どもが歯医者を嫌うのは、治療が痛くて辛いからだ。日吉歯科に通う子どもたちはホームケアの習慣がついているため、メンテナンスだけが目的。痛い治療をしないから、来院を嫌がらない。併設されている小児歯科は、理事長夫人で歯科医のふじ子さんが担当。毎年来院する100人あまりのゼロ歳児は、「1本も虫歯のない大人」に育っていく。
2016年から、日吉歯科は富士通と共同で、個人の医療データにアクセスできるクラウドサービスを開始した。パソコンやスマホで、自分の診療記録を確認できる。引っ越しなどでほかの歯科医にかかる場合、どの歯をいつどんなふうに治療したか、正確な記録を引き継ぐことができるから便利だ。
「初診のたびに、もっと早く出会いたかったと思う患者さんがたくさんいます。しかし何歳であっても、遅すぎることはありません。一刻も早く自分の口の状態を知って、この先どうすれば維持できるかを考えることが大切です」
と、熊谷理事長は力を込めた。
新たに保険適用になった疾患
その翌週、東京都江戸川区の新小岩にある、こばやし歯科クリニックを訪れた。老年歯科のプロフェッショナルに会うためだ。
「歯医者は、歯を治療するだけの場所ではありません。歯科はいま、からだ全体の健康の増進に寄与しようとしているんです」
同クリニックの顧問で、東京歯科大学の櫻井薫名誉教授はそう語る。
「年をとっても体力や健康を維持するために、最も大切な器官は口腔です。栄養の入り口であり、呼吸とコミュニケーションの窓口。口腔こそ、健康長寿の大きなカギです」
櫻井薫名誉教授
「口腔機能低下症」という病名をご存じだろうか。加齢に加え、疾患や障害などの要因によって、口腔の働きが複合的に低下することをいう。昨年4月から保険適用になったばかりの、新しい病気だ。
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source : 文藝春秋 2019年12月号