news zeroメインキャスターの有働さんが“時代を作った人たち”の本音に迫る対談企画「有働由美子のマイフェアパーソン」。今回のゲストはマラソン解説者の高橋尚子さんです。
Qちゃんをゲストに来年の東京五輪からプライベートまで一気に駆け抜けた
有働 2000年に高橋さんがシドニー五輪の女子マラソンで金メダルを取ってからはや19年が経ちます。実は私、高橋さんのゴールの瞬間を現地で見ていたんです。
高橋 そうだったんですか。
有働 NHKの現地キャスターとして初めて夏の五輪取材に行かせてもらったのがシドニーでした。女子マラソンの日は競技場のゴール前の記者席にいて、スタジアムに設置された大型モニターでルーマニアのシモン選手との一騎打ちを見ていました。34㎞過ぎで高橋さんがサングラスを投げ捨てスパート。そのまま先頭でスタジアムに入ってきて、私の目の前で金メダル! ゴール直後に少し空を仰ぎながら笑っていた顔や、両手を上げて声援に応えていた姿を今でも鮮明に思い出します。
シドニー五輪、優勝の瞬間
高橋 ありがとうございます。私にとってもあの瞬間は忘れられません。競技場の地下道を走りぬけてスタジアムに入ったのですが、地下道は観客席の真下にあるのでとても静かなんです。沿道からの声援も消えて15秒ぐらい静寂の中を駆け抜けた後にスタジアムに入る。そうしたらワーッという8万人のものすごい歓声があがって。これがすべて私に注がれているんだと、すごく感動しながらトラックを回っていました。
でも、最後の200mで、電光掲示板を見たら、シモン選手が真後ろにいた。そこで、これは私に向けられた歓声じゃないんだ、悲鳴だ、と気づいて(笑)。それまでは「ああ、嬉しいな」と余裕をもって走っていたんですけど、最後の200mはすごく焦ってしまい、全く覚えてなくて。走りもカックンカックン。あそこが一番きつかったです。
有働 そういうところが高橋さんらしいというか(笑)。幸運にも私はその後も、名場面と語り継がれるような現場を取材させてもらいましたけど、あの金メダルの瞬間はスポーツで感動した場面として真っ先に浮かびます。競技場に入ってきた高橋さんには後光が差しているようでしたから。Qちゃん輝いてました。
暑さ対策は万全だった
高橋 それは嬉しいです。でも本当にライブでスポーツを観戦するとテレビで見るのとはまた違った会場の雰囲気が味わえたり、特別に響くものがあったりしますね。
有働 テレビを通して「伝える」立場にいる人間が言うのもなんですけど、やっぱりスポーツは生で見てほしい。その意味でも来年に迫った東京五輪では多くの人にアスリートの勇姿を直接見てほしいですね。
高橋 はい。特に今、スポーツをやっている子どもたちにとっては選手を身近な存在に感じられる機会です。生身のアスリートを見ることで、子どもたちも「自分もあの選手と同じように五輪の舞台に立ってみたいな」と、夢をより現実的にとらえることができるようになると思うんです。だから、どんな競技でもいいから興味のある種目を見に行って、応援して、「よし、自分もいつか」という気持ちになってもらえると嬉しいですね。
有働 そうですね。それで言いますとマラソンを生で見たい子どもたちも多いと思いますが、どこで見られることになりそうでしょうか。東京か札幌か、はたまた被災地か。
高橋 やはりその話、来ますか。
有働 当然、聞かせていただきます(笑)。国際オリンピック委員会は10月16日に、猛暑への懸念から東京五輪のマラソンと競歩を札幌で行うとする代替案を提示しましたが、開催まで300日を切った土壇場での発表に東京都が反発しています(10月26日現在)。高橋さんにも色々な立場があると思いますが、「選手」としてはどう考えますか。
高橋 選手を守る立場で考えると万が一のことがあれば取り返しがつきません。開催地についてはよりリスクの少ないことを検討するのは当然です。ただ、あくまで個人的な意見として、私が選手であれば、このまま東京で開催してほしいと思うでしょうね。先ほどのシドニーのような五輪のために作られたメインスタジアムで、大観衆の声援の中で走るというのはすごくモチベーションになりますし、既に代表に選ばれた男女4選手に限らず、日本の選手やスタッフは、13年に東京五輪開催が決定してからずっと、夏の東京でマラソンをするために科学的な分析や研究を積み重ねてきましたから。
有働 例えばどんな研究ですか?
高橋 夏の荒川土手を30㎞走り、その際の汗を採取したり、心拍数を計る。あるいはサーモグラフィで体温を測定したりして、トップ選手全員がどう「暑さ」を乗り切ればよいか対策を重ねてきたんです。もちろん仮に札幌になったとしても、札幌も暑いので、そのすべてが無駄になるとは言いませんが……。
有働 なるほど。とかく「暑さ対策」の不備が指摘される東京五輪ですが、長距離陸上界はそこに万全の対策を尽くしてきたわけですね。
頂上への道は一つではない
高橋 実際、酷暑のドーハで行われた今年の世界陸上でも暑い中で結果を出したロードの選手が多かったんです。選手だけでなくスタッフも一丸になって暑さを克服しました。象徴的だったのは競歩です。例えば20㎞競歩は1周1㎞のコースを20周するんですが、周回ごとに給水テーブルに水や氷を出す。日本は強化に関わったスタッフが総出で、出場している3選手のために「今回は水」「次は氷」「次は帽子」と毎周違うものを選手に渡していました。これを競技中60回繰り返すわけで、給水担当のスタッフが暑さで倒れるのではと心配になるほどでした。
有働 戦っているのは選手だけではないわけですね。
高橋 本当にそう思いました。これほどのチームプレイを見せたのは日本だけです。20㎞競歩は山西利和選手が金メダルを獲りました。もちろん個人の力は大きいんですけど、今回はある面ではチームジャパンの勝利だったと思います。
有働 とすると、東京にしろ札幌にしろ、日本選手にとっては、むしろ「暑い」方がよいということ?
高橋 日本独特の蒸し暑さは選手に味方するかなとは思いますね。
有働 なるほど。10月13日に行われたシカゴマラソンでケニアのコスゲイ選手が2時間14分4秒で走り、女子の世界記録を更新。男子では、10月12日にウィーンで行われた特別レースでケニアのキプチョゲ選手が非公式ながら史上初の2時間切りとなる1時間59分40秒をマークするなど男女ともアフリカ勢が圧倒的なスピードを武器に世界の主要大会を席巻しています。その中でスピードで劣る日本選手はスタッフも含めた総合力で勝負すると。
高橋 はい。マラソンという山の頂上にたどり着くためには、道は一つだけではないと思うんです。スピードという方法で登っていく人もいれば、スタミナで勝負する人もいる。そこがマラソンの面白いところで、日本人のチーム力を活かしたやり方も通用すると思うんです。
有働 高橋さん自身は現役時、何を武器に頂上まで登ったんですか。
高橋 私はスピードでは負けるかもしれないけど、走ってきた量では誰にも負けないと思ってやってきました。オリンピックといった大舞台では100%の状態でスタートできることなんてほとんどないんです。周囲のプレッシャーや会場の雰囲気、独特の緊張感の中でどんどん削られて、80%の実力を出せればいい方です。ケニア、エチオピアの選手なんて脚が長くて本当にカモシカみたいで、強そうに見えるんですよ。「うわ〜、こういう人と戦うのか」って思った時に、「でも、この中で一番走ってきたのは私だ」という自信があると、自分を強く保てる。漠然と金メダルをとりたいと思っていただけだったら、重圧に押しつぶされたでしょうけど、これだけは自分は世界一というものがあったおかげで負けない気持ちを持てました。
有働 なるほど、走る自信か。しかし、高橋さんと野口みずきさんのアテネでの金メダル以降、日本の女子選手は結果を残せていませんね。
高橋 今の若い選手には私なんかよりもっともっと素質を持った人が一杯います。この子はもう少し頑張ったら2時間20分を切れるのに、と思う選手が何人もいるんです。ここ最近の2時間22〜3分台での決着が多いレースには、正直もどかしい気持ちもあります。ただ、日本人で2時間20分を切ったことがあるのは、野口さん、渋井陽子さん、そして私と3人もいるんですね。今の才能ある子たちが私たちの記録を超えられないわけないよ、と思うんです。誰かが20分を切れば、男子マラソンの設楽悠太選手と大迫傑選手が立て続けに日本記録を更新したように、10分台で走る選手がポポポポンと出てくる気がします。
有働 しかし、実際にはポポポポンとはいっていないわけで、その原因はなんだと考えていますか。
高橋 結局、根性論かよとお叱りを受けてしまいそうですが、圧倒的に練習量が少ないなとは感じています。今は世界中でマラソンのスピード化が進んでいて、日本の選手もスピードを上げるためにいろいろ試行錯誤していますが、先ほど言ったようにスピードだけがマラソンではない。ほかの部分を徹底的に磨くことで、世界新を狙えるかどうかはともかく、2時間20分の壁を破ることはできると思います。そして今の女子マラソンは2時間19分台をコンスタントに出せれば、優勝争いには絡むことはできる。正直、スピードだけで勝負するならケニアやエチオピアの選手に日本人が勝つのは難しい。でも、日本にもアフリカ勢に負けない長所があって。
有働 それはなんでしょう。
高橋 私は2001年のシカゴマラソンで私が持っていた世界記録を更新したヌデレバ選手と仲が良くて今でもよくお話するんです。お互いの魂がすごく近い感覚があって、言葉はあまり通じなくてもジェスチャーや片言の英語で何時間でも過ごすことができる。その彼女が言うのは「私たちケニア人はスピードはあるかもしれないけど、あなたのように毎日40㎞走るような練習はできない」と。日本人ならではの忍耐や根性というのはやっぱりマラソンに必要なものだと思うんです。その部分をうまく活かした練習を取り入れていければ記録は伸びると思います。
有働 なるほど。でも練習環境も含めて、今の選手の方が、高橋さんが現役の頃よりずいぶん恵まれてますよね。高橋さんが今走ったらもっとタイムが出ますか?
高橋 よく(野口)みずきちゃんとも話すんです。今のように科学的、医学的なサポートがあって、シューズも現在の最先端のもので走ってみたかったね、って。
有働 高橋さんの頃の練習は今と比べれば、科学的というよりは根性の部分が強かった。小出義雄監督が車の助手席から顔を出して、走る高橋さんに「ガンバレ」と声をかけている場面を思い出します。
高橋 映画『ロッキー』の世界ですよね(笑)。ウェイトトレーニングも今みたいに科学的じゃなくて、とにかく「腹筋しろ」「はい! 2,000回します!」とかそんな感じ(笑)。昭和のやり方というか。でもそれが私には合っていたんです。
有働 しかし、こうして話をうかがっていると「次の高橋尚子を育てたい」という気持ちもあるんじゃないかなと思うのですが、指導者という選択肢は今後ありますか?
高橋 教えたいという思いがないわけではないんです。でも今はまだ修行中です。今の私には指導するための“引き出し”が少なくて、きっと自分の経験を押し付けることしかできない。それでは人生をかけて私のところに来てくれるような選手に対して責任が果たせない気がするんです。選手の人生を一緒に支えてあげられるようになりたいですね。
「お前は世界一になるよ」
有働 単に指導するとかコーチするのではなく、その人の人生をよりいいものにする。
高橋 そうですね。私の場合だと、1年のほぼ半分は小出監督と一緒に生活しているような状態でした。寝る時だけ違う部屋にいるという日常。そうなると、選手のすべてを受け入れながら指導する必要があるんです。小出監督が凄いのは選手ごとに声のかけ方が違うんです。例えば有森裕子さん(92年バルセロナ五輪銀、96年アトランタ銅)に対してだったら、監督が一歩下がって彼女を尊重して「有森先生、有森先生」と呼ぶ。鈴木博美さん(97年世界陸上金)に対しては友達のような感覚で「今日はこういうメニューを考えてるが、お前どう思う?」と話し合って互いに納得したうえで練習を進める。私の場合は逆に監督があれしろ、これしろと言うのを「はい、はい」と聞く師弟関係。
恩師 小出監督と
有働 10人いれば10人違った指導法があるわけですね。
高橋 一番大切なのは、選手が「よーし、やろう」という気になれるかどうか。「監督が熱くたって強くならないんだよ」というのが監督の口癖で、選手のやる気を引き出すのが本当に上手でした。ただ速く走らせるだけでなく、それぞれの選手の性格も受け入れて、支えてくれたからこそ「監督のために私は絶対に金メダルを獲るんだ」という思いになるんです。
男子はまた違うのでしょうが、女子の場合は、小出監督みたいに、自分のことを真剣に考えてくれているというのが嬉しいんです。監督もそのあたりはうまくて、20人ぐらいチームに選手がいたら、1人1人呼んで「お前は世界一になるよ」と声をかけるんです。
有働 20人全員にですか?
高橋 全員に、です(笑)。でも選手同士だって繋がってますから、みんなで夜ご飯を食べている時に「私、監督から世界一になれると言われた」と誰かがしゃべるわけです。そうすると「私も」「私も」と20人全員が言い始める(笑)。
有働 ばれちゃった(笑)。
高橋 でも、そこで「監督、嘘ばっかり」とならないのが小出監督のすごい所で(笑)。みんな「監督だから他の選手にもそう言うのは仕方がない。でも、きっと私が一番だと思ってくれている。だからその期待に応えよう」と思いこむんです。
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source : 文藝春秋 2019年12月号