刺青を描く仕事

山本 芳美 文化人類学者
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 のべ2000名以上の俳優に刺青を描いて、俳優でもあった毛利清二さんに、2023年3月から9回のインタビューを敢行した。

 毛利さんは「80歳で引退したが、弟子志望も取材者もきーへんかった」と述べ、東映太秦映画村・映画図書室にて堰を切ったようにかつての撮影所について話し始めた。

書籍を手にする毛利清二さん(写真提供:山本芳美)

 話をうかがうにつれ、東映京都撮影所と映画村も、この世界にあまたある「秘境」だとわかった。2000年の雑誌記事でも、撮影所のスタッフ自らが「京都の秘境」を自称していた。それは、撮影所全体に仲間意識と独特な慣習が息づいていたことが大きい。高学歴の所長や監督・脚本家に、裏社会に通じたプロデューサー、撮影所周辺に住むスタッフたち、何ごとも特別扱いのスター、画面に映ってやっと特別手当がでる大部屋俳優が混然一体となった世界がそこにあった。

 例えば、人の呼び方ひとつとっても、誰もが「ちゃん」呼びかあだ名があり、毛利さん自身は「ケーリやん」と呼ばれていた。「ちゃん」から出世する場合もあって、任侠映画のプロデューサーの俊藤浩滋の娘、藤純子(現:富司純子)が高校生の時は、みなが「純子」と呼び捨て。少し経つと「純子ちゃん」。それが、『緋牡丹博徒』シリーズがヒットして大スターになると「純子さん」に変化した。

「拓ぼん」こと川谷拓三と毛利さんは同期であったが、「ぼん」と呼ばれたのは若手を「ぼん」と呼んだからだ。「拓ぼんは、ガラスに飛び込む名人だったな。酔っぱらって暴れてね、留置場にもらい受けに行ったよ」と毛利さん。

 毛利さんが述べるには、『蒲田行進曲』(1982年、深作欣二)はまさに自分たちを描いた映画だったという。「深作監督とわしらは麻雀仲間でな、麻雀しながら汐路章の話を聞かしてやったよ」。名バイプレーヤーとして知られる汐路が頭角を現したのは、『新選組』(1958年、佐々木康)のクライマックス「池田屋事件」の場面で、8メートルの階段から落ちるスタントに身体を張ったことからだ。「汐路は薄い布団を下に敷いたぐらいでやり切った。『蒲田行進曲』で階段落ちを担当したJAC(ジャパンアクションクラブ、当時)は身体のあちこちに防具をつけたけどな」。

『蒲田行進曲』でのスターの銀ちゃんと大部屋俳優のヤスたちの関係を地で行くように思えたのが、『昭和残侠伝』シリーズ4作目から背中に唐獅子牡丹を描いた高倉健とのつきあいだった。

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source : 文藝春秋 2025年11月号

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