石坂泰三(いしざかたいぞう)(1886―1975)は東京生まれ。東大卒業後、逓信省に入るがスカウトされて第一生命に移る。のち同社社長。戦後、労働争議で揺れる東芝に社長として乗り込み、経営立て直しに成功した。財界首脳としても重きをなし、経団連会長、日本万国博覧会協会会長などをつとめた。一義(かずよし)氏は長男。日銀理事からケンウッド社長。
今日もまた帰らぬ妻を偲びつつ あえなく暮れる雨の冬の日
恥じらいつためらいつつも嫁ぎきし 若かりし日の君を忘れず
母雪子が亡くなったのが、昭和30(1955)年。これはそれから8年後、77歳だった父が詠んだ作品で、歌集「志乃婦草」に収められているものです。
いい歳をして、よくこんな歌を詠んだものだと思います。しかし、男というものは、女房に先立たれてから妙に懐かしがったりするものとみえて、「あいつは後顧の憂いなく、俺に仕事をさせてくれた」と、母には随分感謝していました。
また、「家庭人」としての父は、平均点を遥かに超えていたと言っていいでしょう。そればかりか、「自分の家庭がハッピーであること」を生涯の目標と思っていた節がある。

「少年よ大志を抱け」、「末は博士か大臣か」という時代に生まれ育っていながら、「家庭の幸せ」が父の「志」であったとはいささか不思議な気がします。ともあれ、大晦日に浅草に行き、正月は明治神宮に御参りするのがわが家の行事の一つでしたが、そういう時の父はいかにも楽しそうで、道すがら凧を買ってもらったりしたのが懐かしく思い出されます。
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source : 文藝春秋 1989年9月号

