親子のかたちは時代を映す。昭和59年から40年続いた長寿連載、一号限りの豪華リバイバル
僕は43歳までの19年間、プロ野球選手としてプレーしましたが、僕の野球の土台は、母とのキャッチボールにあります。僕のプロ入り後、母のソフトボール仲間が「和田の強肩強打は母親譲り」と言っていたそうですが、たしかに僕の野球の基礎は母が作ったようなもの。地元の岐阜で、物心ついた時から僕のキャッチボールの相手をしてくれたのは、いつも母でした。父はあまり野球に興味がなく、仕事も忙しかったので、自然とそうなったんです。
母は学生時代からソフトボールをやっていて、僕が幼稚園くらいの頃も“ママさんソフト”でプレーしていました。日曜日は毎週、早朝から近所の学校の校庭で練習があるので、僕はその練習を見ながら遊具で勝手気ままに遊ぶ。その頃にはもうテレビで中日ドラゴンズの試合中継を見ていたので、母のプレーする姿を見ながら、どんどん野球にのめり込んでいきました。
キャッチャーをやっていた母の指導は厳しくて、いつも「力入りすぎだよ!」なんて声が飛んでくる。熱が入りすぎて、ボールが飛んで隣の家の窓ガラスを割ってしまったことも一度や二度ではありません。幸い近所の方たちはいい人ばかりで怒られることもありませんでしたが、今思えば、母はしょっちゅう謝りに行って大変だったかもしれません。

小学校からは地元の少年野球団に入りましたが、練習や試合を終えると母から「もっと腰を落とさないと」「バッティングで力んじゃダメ」などと、技術的指導が入る。不甲斐ないプレーをした時には、「情けない!」と活を入れられることもありました。当時は「うるさいな」と思っていましたが(笑)。
母は野球以外のことにもとても厳しくて、箸の持ち方から勉強まで、とにかく毎日のように怒られていました。宿題の字がちょっと汚かっただけでも、全て消されて書き直し。当時は、母に怒られるのが怖くてたまりませんでした。でも、母は試合の応援には必ず来てくれていた。うちは姉1人、妹2人の4人きょうだいで、時間を作るのも大変だったと思いますが、遠征の時に送り迎えをしてくれるのも母でした。
中学にあがってからは、一人前として見てくれていたのか、厳しく怒られたり技術的指導をされたりすることもなくなりました。24歳でのプロ入りも、会社員の方が安定しているのではないかと内心反対だったそうですが、面と向かって言われることはありませんでした。
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