水木センセイが好きだった五目そば

鈴木 利夫 「中華料理八幡」料理長
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「中華料理八幡(はちまん)」は東京都調布市で、1965年からのれんを掲げてきました。私がこの店で創業者の親方の下、働きはじめたのは、76年、28歳の時でした。親方は私を一人前に育ててくれただけでなく、88年に私を2代目店主にしてくれました。

 この「八幡」の近所には、国民的漫画家の水木しげる先生の仕事場がありました。自転車で町を颯爽と走り去る水木先生を出前の途中によく見かけました。町内の子どもたちは、水木先生にサインをせがもうと一生懸命に追いかけていました。「今日は駅前の本屋にいたぞ」「さっき野川のほとりを歩いていたよ」などと水木先生の目撃情報を子どもが噂していたものです。

 水木先生は「八幡」のお得意様でした。入口に近いテーブル席が水木先生の定位置。出前の注文もよくいただきました。

 水木先生のお気に入りは、五目そば。タンメンの上に色々な具材をトッピングした一品です。チャーシュー、ゆで卵、海老、蒲鉾、カニカマ、きくらげ、にんじん、キャベツ、もやしなどたくさんの具材を載せているので、栄養バランスがよくて、ボリューム満点。これを水木先生はいつもぺろりと平らげていました。スープまで飽きずに味わっていただけるように様々な工夫を凝らしていましたから、完食していただけるのは、すごくうれしかった。

 でもある時、水木先生の注文が五目そばからラーメンに変わりました。「食が細くなったのかな」と水木先生の衰えを感じて、一抹の寂しさを味わいました。それから数年後、水木先生は2015年に鬼籍に入られました。

「中華料理八幡」の五目そば ©文藝春秋

 その後も私は店を続けていたのですが、2024年に脊柱管狭窄症が悪化し、手術を受けるために、いったん店を閉めざるを得ませんでした。術後もリハビリが必要で、2025年の春には、杖を使えばようやく歩けるまでに回復したのですが、背骨に3カ所もボルトが入っているので、落ちたものを拾うのも困難で、長時間の立ち仕事はつらい。店の再開は正直なところ難しいと思っていました。

鈴木利夫氏 Ⓒ文藝春秋

 そんな私の気持ちが変わったのは、休業中に水木ファンが「八幡」を訪れては閉まっているのを見て、残念そうに帰っていったことを聞いたからです。「八幡」は水木先生いきつけのお店であるだけでなく、水木作品にそれらしき店が出てくるので、水木ファンにとっては、“聖地”になっていることを知りました。何でも鬼太郎が猫娘にラーメン2杯を奢った店は調布の神社のそばにある中華そば屋だから、これは「八幡」ではないかとファンの方は言います。また、2020年に放送された『ゲゲゲの鬼太郎』のアニメに出てくる鬼太郎とねずみ男がラーメンを食べる店も「八幡」によく似ていると教えられました。そういえば、水木先生の『悪魔くん』が2023年にアニメ化された折には、「八幡」をモデルにした町中華を登場させたいと言われて、スタッフから取材を受けました。

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source : 文藝春秋 2026年2月号

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