山口瞳(やまぐちひとみ)(1926―1995)の治子(はるこ)夫人への愛妻家ぶりは有名だった。『江分利満氏の華麗な生活』に「女」という一章があって、その中で山口は、主人公の江分利に、「江分利は、ほんとうに女房の夏子だけしか女を知らない。そう広言することにちっとも恥ずかしさを感じない」と語らせている。息子で作家の山口正介(しょうすけ)氏は、昭和38(1963)年の連載開始以来、亡くなる直前まで30年以上も休まず書き続けられたコラム「男性自身」を、「母への一種のラブレター」だったと言っている。
鎌倉アカデミアで初めて会った時から、私は瞳さんのことを素敵だと思っていたんですけれど、瞳さんは自分のことを、素敵ではないし、頭は悪いし、女性にモテるはずがないと、ずいぶん卑下して考えていたのね。そのくせ同級生の女の人に対して、きつい皮肉を、あの大きな目で言うから、皆から、治子さん、よく怖くないですねって、聞かれて。でも、私は、全然。

付き合いだして間もなく、「あなたは僕の歌や書いたものが好きなんですか。それとも僕自身が好きなんですか」と手紙で書いてきたから、「瞳さんが好きだからこそ、瞳さんがつくったもの、瞳さんからでてきたものすべてが好きなんです」という返事を出すと、ある時、突然、あなたはどこかでラブレターの書き方を習ったことがあるのですか、なんて聞くの。私が、そんなこと聞くのは失礼ねって言って帰ると、怒らせたと思ったのでしょうね、すぐに、「失礼なことを言った、僕は絶望の淵にいる」なんて手紙が。そうじゃなくて、私も本当はあなたのことが大好きなのという手紙を、また出すと、それが行き違ってしまって、瞳さんから、「僕の方はいつも速達で出すのに、あなたは普通ですか」って言われたこともありました(笑)。
一緒に暮らしはじめてからは、瞳さんの好きなことは自分も好きにならなきゃいけないと思って。瞳さんは、御飯を食べながらでも、新聞読んだり、本を読んだり、必ず、するでしょう。私は瞳さんとお話をしたいんだけれど、瞳さんが新聞読んでいるから、こっちも、ちょっと横に新聞を置いとけば、新聞でお互いの話題がまたできるわけですよね。
勝負事も習ったんですけどね。麻雀は、瞳さんから、「あなたぐらい麻雀を覚えられない人はいない。本当にそういう才能のない人だ」と言われたぐらいだし(笑)。将棋も、入門書は買ってはみたものの、全然、難しくて。ただ競馬だけはわからなくても、できますでしょ。府中も近いですし。だから必ず一緒にいくことになったんです。
バーにもよく連れていってもらいました。普通は、ああいう所に、奥さんを、あまりね。でも、瞳さんは必ず一緒に連れていってくれるんです。こないだも、連れていってもらったバーの名前を思い出していたら、たちまち、10以上の名前を挙げられるんですよ。
でもね、そういう所の人で、一人だけ、ちょっとね、瞳さんはべつに、そんなことはないって、もちろん否定するでしょうけれど、瞳さんのことをとても、私が好きになったみたいに、好きになった人がいて、それは私もちょっとわかりました。彫刻の関頑亭先生が家を建て増しして彫刻教室を開いた時、その記念の会があって、「もうそろそろ出かけないと、始まっちゃうわよ」と言っても瞳さんはグズグズしている。そしたら彼女が花束を持ってやって来たんです。関先生も彼女のお店のお客さんで、一緒にお祝いに行く約束をして、彼女が来るのを待っていたわけです。それを私に言うのは、やっぱりちょっと照れくさかったのか、事前に知らされてなくて。あの時はちょっとヤキモチを焼いて、「来るというのなら、ちゃんと言ってくれればいいのに」なんて(笑)。その時ぐらいです、私がヤキモチを焼いたのは。でも、いま思うと、その人と仲良くさせてあげても良かった。こんなに早く死んじゃうなら。あの時は絶対にだめだったけど(笑)。
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source : 文藝春秋 1998年2月号

