「今、世界では多くの人々が貧困にあえぎ、福祉や教育制度は崩壊し、政治でも分断が進んだ。環境問題は待ったなしで、その上、テロや犯罪によって多くの命が奪われている」。このように世界の現状を批判的に捉え、絶望している人々は多いだろう。
こうした、希望のない現状評価に対して、「それは『地球は平らだ』と主張するくらい、全くの誤りだ」と断言するのは、ハーバード大学心理学教授のスティーブン・ピンカー氏(65)だ。同氏は進化心理学の第一人者で、2004年には『タイム』誌の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれた。2011年に刊行した『暴力の人類史』(青土社)では、人類史を通じて暴力が確実に減少したことを、データを基に立証して話題となった。最新刊の『21世紀の啓蒙 理性、科学、ヒューマニズム、進歩』(草思社)では、現代にはびこるシニシズムを危惧し、理性や科学に基づく「進歩」の実践の重要性を説いている。
なぜ我々はデータではなく印象論に左右されてしまうのか、そして未来に期待できる根拠とは何か、ピンカー氏が語った。(取材協力・写真 大野和基)
スティーブン・ピンカー(ハーバード大学教授)
世界の"幸福"は進歩している
データを見れば、人類を取り巻く環境が良くなっていることは自明です。18世紀中ごろには29歳だった平均寿命は、今や71.4歳に延び、食糧状態についても、1960年代には1日1人当たり約2200キロカロリーだった摂取量が、現在では約2800キロカロリーです。また、世界総生産は200年でほぼ100倍と、富も増えました。
インフラや政治形態も改善しています。特に先進国では、清潔な水が蛇口から流れ、権力者を批判しても投獄されない民主主義の下で暮らすことができる。さらに、機械化が進み、世界の知識を小さな端末で持ち歩けます。
世界の富は200年で100倍に
これらの進歩は、自然の成り行きで得た結果ではありません。人類が求め、科学によって獲得したのです。多くの人は気付いていませんが、知識と科学が人類の「ウェルビーイング(幸福)」における長足の進歩をもたらしました。進歩とは、自然の摂理ではないのです。
しかし、世界はどんどん悪くなっている、未来は暗いという認識が広がっています。また、科学を軽視する人も増えています。
人はなぜ理性や科学による進歩を正しく認識できないのでしょうか。
ジャーナリズムの罪
原因の1つは、ジャーナリズムです。ジャーナリズムは、どんな日でも、この惑星で起きている最悪のことを選んで報道します。77億人が暮らす地球のどこかでは常にひどいことが起きています。
認知心理学では、人は危険が起きる確率を、身近なイメージや、よく聞くストーリーに基づき判断することが知られています。「利用可能性バイアス」と呼ばれるバグで、簡単に言えば、「最近遭遇した類似例から判断してしまうバイアス」です。
このバイアスは、しばしば誤った結論を導きます。医学を学び始めたアメリカの医学部1年生は発疹を見るとすぐ病院に通うべきだと思うし、バカンスの観光客は、『ジョーズ』を見た後は海に入りません。
ジャーナリズムは、このネガティブなバイアスを作るのです。毎日、銃撃やテロ攻撃、内戦、飢餓、病気の大流行についてのニュースを見ると、世界中がバイオレントになり、病気が流行し、貧困に向かい、危険に陥っていると思うでしょう。
2016年のある調査によれば、アメリカ人の大多数がイスラム過激派組織のニュースを熱心に見ており、「イラクとシリアで活動するイスラム過激派は、アメリカの存在と存続にとって深刻な脅威になっている」と答えた人は77%にのぼりました。もはや妄想です。
いいニュースは報道されない
一方で、平和に暮らしている地域はニュースになりません。「私は今、テロリストに攻撃されていない平和な都市から生中継で報道しています」とリポーターが伝えるのを聞いたことがありますか? 良いことは年に2、3%の割合で徐々に進み、10年、20年をかけて大きな進歩になりますが、その進歩は漸進的なので、新聞は報道しません。
例えば、極度の貧困(1日1.9ドル未満で生活する人)は、この200年間で、世界人口の90%から10%にまで減少しています。しかし、「今日、13万7000人の人が極度の貧困から脱出しました」というヘッドラインを新聞で見ることはありません。この25年で12億5000万人が極度の貧困から脱したという事実に、人は気が付いていないのです。
また、多くのジャーナリストは現状に満足することを防ぐために、ネガティブな内容を報道し、人に行動を起こさせることが義務だと思っています。彼らにとってポジティブなニュースというのは、政府プロパガンダや企業広告、オランウータンが子猫と仲良くなったというような、心温まる人情話なのです。
私は、この考えに反対です。ジャーナリストの責任は、世界の正確な状況を伝えることです。ある問題が解決しつつあること、ある災害が減っていることこそが、ポジティブなニュースなのです。
ジャーナリストの中には、「いいね!」のためにはセンセーショナルな記事にせざるを得ないと言う人もいます。しかし、新聞にはスポーツ欄やビジネス欄があります。スポーツ欄では勝っても負けても試合の結果を報じます。ビジネス欄には株価や為替レートが出ています。株価は上がっても下がっても変わらなくても報道されます。
一般のニュースも、ビジネス欄やスポーツ欄のようにあるべきです。犯罪率や今起きている戦争の数、二酸化炭素排出量などについて、最新の数字を載せるべきなのです。
2018年10月と翌年3月、ボーイングの飛行機が墜落しました。そのとき、飛行機がどれだけ危険かという記事がたくさん出ました。しかし、この記事は飛行機の乗客が墜落事故で死亡する割合は過去45年で100分の1になり、飛行機がより安全になっていることを無視しています。ニュースには、歴史的、そして統計的な視点での解説がもっと必要です。
なぜなら、そうしたことを伝えないと、我々の努力は失敗の連続だったと思うようになり、一種の無力感や、宿命論、諦めに襲われます。
諦めに陥った人は、過激派や「私が全て解決する」というカリスマ性のあるリーダーに誘惑される危険性があります。今の仕組みを破壊すれば今よりマシになるという、ニヒリズムに惹かれるのです。
世界的にも、2010年代以降、ポピュリズムやナショナリズム、軍国主義が台頭しています。自国がディストピアになり、現状を打破できるのは強い指導者しかいないという厭世観に満ちているのです。「今ある制度を壊せば世界は良くなる」と、右派、左派、ともに声を揃えています。ドナルド・トランプが大統領選への立候補を表明する前からこうした状況が続いています。
そして、自由民主主義や、EU、国連といった、人間の理性への信頼から生まれた諸制度に対しての信頼が失われています。人類の諸問題を解決して進歩を重ねようという、前向きなビジョンを提唱する声はあまり聞こえてきません。
我々はデータを理解できない
残念ながら我々は、生まれながらに統計を理解できるわけではありません。例えば、健康で長生きする人が増えたというデータがあっても、自分自身が健康でいられるか分からないから不安だという人がいますが、それは論理的とは言えません。そうしたあいまいな不安感を解消するためにも、データと統計について学校で早めに教えるべきです。
意外に思うかもしれませんが、データを正しく理解できるかどうかは、知能の高さとは関連しません。
次のような実験があります。ある皮膚疾患に新種の塗り薬を塗ってもらった場合と、塗らなかった場合で、それぞれ症状が改善した人数と悪化した人数を示しました。
ここで、薬は効いたか効かなかったか質問します。薬を処方した人数と処方していない人数は母数が異なるので、効果については、その割合を比べなければなりません。計算が苦手な人は、人数だけを比較して答えを間違え、計算が得意な人は割合を比較して正しく答えました。
ところが、別バージョンの実験を行うと、結果は大きく変わりました。皮膚疾患を犯罪率に、塗り薬を塗ったかどうかを、市民が公共の場で銃を携帯することを規制するかどうかへと問題の内容を変えたのです。
すると、犯罪率が銃規制によって「低下」したことを示すデータが示されたとき、銃規制を行うべきだと考える、リベラルで計算に強い人は、データを正しく読み解きました。しかし、銃規制を行うべきでないと主張する保守派の人は、計算に強い人であっても、銃規制が犯罪率の低下に効果があったという正しい答えを導けませんでした。
同様に、犯罪率が「上昇」したデータを示したとき、保守派で計算に強い人は全員正解しましたが、リベラルで計算に強い人は、大半が答えを間違えました。計算に強い人でも、銃規制に賛成か反対かという、自分の政治的信条に基づいた回答をしてしまうのです。
我々の認知力はバイアスの影響をすぐに受けます。そうした限界を克服するために、データを理解する必要があるのです。調査や分析によって得られるデータから考え、自分自身の考えだけを信頼しないよう、常に心に留めておくべきです。
インターネットやSNSにおいては自分が見たい情報しか、見えなくなりがちです。それを「フィルターバブル」と言います。我々は、自分と異なる意見を持つ人々に対して「彼らはフィルターバブルに入っている」と一蹴してしまいますが、あなた自身もフィルターバブルの中にいることには気が付いていません。
自分が正しいと思わせてくれるストーリーや記事を読むのは楽しいものです。反対に、自分の見方に批判的な内容に触れることは不快です。しかし、健康に過ごすため、食べすぎずに運動を心がけるように、自分とは異なる意見も傾聴すべきです。
普段から、自分と意見の異なる人と積極的に意見交換した方が良いでしょう。
教育を受けたはずの科学者でさえ、この落とし穴の例外ではありません。私が「バイアス・バイアス」と呼ぶ誤謬があります。自分もバイアスに囚われていることを忘れ、自分と意見の異なる人こそがバイアスを持っていると思いこむことです。
あるリベラルな3人の社会科学者は「保守はリベラルより敵対的かつ攻撃的である」という論文を発表しました。しかし、実はデータの分析を誤っており、逆にリベラルの方が敵対的かつ攻撃的だということに気が付き、論文を取り下げたのです。
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source : 文藝春秋 2020年2月号